菩薩下種論 (日蓮非本仏論)   愚人
[197] 菩薩下種論
 投稿者: 愚人 投稿日:2016年10月 7日(金)03時10分43秒 om126212051078.11.openmobile.ne.jp 通報 返信・引用 編集済
 『当体義抄』

 □釈尊五百塵点劫の当初、此の妙法の当体蓮華を証得して、世々番々に成道を唱へ、能証所証の本理を顕はし給へり。今日又中天竺の摩訶陀国に出世して、此の蓮華を顕はさんと欲すに機無く時無し。故に一の法の蓮華に於いて三の草華を分別して三乗の権法を施し、擬宜誘引せしこと四十余年なり。

 ■この文には、釈尊が五百塵点劫の当初に当体蓮華を証得し成道した事は示しているが、衆生に下種教化したとの文は無い。釈尊が衆生を教化したのは「世々番々」「今日」つまり釈尊が衆生に成したのは「熟」「脱」の教化だけである。


 『三世諸仏総勘文教相廃立』

 釈迦如来五百塵点劫の当初、凡夫にて御坐せし時、我が身は地水火風空と知ろしめてし即座に悟りを開きたまひき。後に化他の為に世々番々に出世成道し、在々処々に八相作仏し、王宮に誕生し、樹下に成道して始めて仏に成る様を衆生に見知らしめ、四十余年に方便の教を儲け衆生を誘引す。其の後方便の諸の経教を捨てゝ正直の妙法蓮華経の五智の如来の種子の理を説き顕はして、其の中に四十二年の方便の諸経を丸かし納れて一仏乗と丸し、人一の法と名づく。(平成新編御書一四一九頁)

 ■『総勘文抄』に於いても、釈迦如来の五百塵点劫の当初における下種を説いていない。釈迦如来が衆生に説法教化するのは、「化他の為に世々番々に出世成道」つまり「熟」「脱」の利益を施す説きである。

 仏の五百塵点劫の成道を説く、『当体義抄』『総勘文抄』の両抄に仏による衆生への下種は説かれていない。つまり衆生への下種は仏の役目ては無いことを日蓮聖人は両抄に於いて示している。

 であるならば、五百塵点劫の当初、則ち「本未有善の衆生」への下種を成したのは誰か?。それは、釈迦如来の初発心の弟子である「地涌の菩薩」である。

 (2)に続く



 ■論と言えるほどのものではありませんが、下種は菩薩の役目であることを日蓮聖人の遺文から考察してみます。

  • 法介
  • URL
  • 2016/10/10 (Mon) 04:10:21
 
菩薩下種論 2  愚人
[12] 菩薩下種論 2
 投稿者: 愚人 投稿日:2016年10月11日(火)19時37分55秒 om126186179160.7.openmobile.ne.jp 通報 返信・引用 編集済

 本未有善の衆生に下種をするのは、菩薩である。その文証となる日蓮聖人の遺文は、真蹟遺文である『曾谷入道殿許御書』である。

 而るに地涌千界の大菩薩、一には娑婆世界に住すること多塵劫なり。二には釈尊に随って久遠より已来初発心の弟子なり。三には娑婆世界の衆生の最初下種の菩薩なり。(平成新編御書七八四頁)

 此の文で、

 地涌菩薩が久遠より娑婆世界に住することを明かし、
 地涌菩薩が久遠已来の初発心の弟子であることを明かし、
 地涌菩薩が一切衆生に下種したことを明かしている。

 菩薩が本未有善の衆生に下種を下すことは、『曾谷入道殿許御書』の二段落目に、天台大師の『法華文句』から引いた文にも有る。

 答えて日く、本已に善有るには釈迦小を以て将護し、本未だ善有らざるには不軽大を以て之を強毒す(平成新編御書七七七頁)

 此の文は明らかに、

 本已有善の衆生には、仏が熟脱の化導を成すことを示し、
 本未有善の衆生には菩薩が下種することを示している。

 それでは次に、写本遺文も交えて更に「菩薩下種論」を論じてみよう。

   (続く)

  • 法介
  • URL
  • 2016/10/27 (Thu) 04:56:12
 
毒鼓を撃たしむる
[14] 毒鼓を撃たしむる
 投稿者: 法介 投稿日:2016年10月12日(水)08時49分34秒 p1139105-ipngn200808fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp 通報 返信・引用
|
愚人さんへ

『曾谷入道殿許御書』のご指摘の文の後にある

「不軽菩薩末世に出現して 毒鼓を撃たしむるの時なり」

の解説も宜しくです。この文の意味するところがいまいちつかめないので。

[15] 法介氏
 投稿者: 愚人 投稿日:2016年10月12日(水)10時12分53秒 om126186179160.7.openmobile.ne.jp 通報 返信・引用
 日蓮正宗の解説です。

 http://tidouji.la.coocan.jp/yougo/5/529a.html

 日蓮聖人が不軽菩薩の教化を、時代を「末法」とし化導を「下種折伏」としているのがポイントです。

 後ほど『菩薩下種論3』として、日蓮聖人の遺文を通して簡単に考察します。(簡単にしか書けないので)

  • 法介
  • URL
  • 2016/10/27 (Thu) 05:01:51
 
菩薩下種論 3   愚人
[22] 菩薩下種論 3
 投稿者: 愚人 投稿日:2016年10月15日(土)04時13分16秒 softbank126074107042.bbtec.net 通報 返信・引用 編集済
 『顕仏未来記』

 例せば威音王仏の像法の時、不軽菩薩「我深敬」等の二十四字を以て彼の土に広宣流布し、一国の杖木等の大難を招きしが如し。彼の二十四字と此の五字と其の語殊なりといえども其の意之同じ。彼の像法の末と此の末法の初めと全く同じ。(平成新編御書六七七頁)

 ■不軽菩薩の「二十四字の法華経」と日蓮の「南無妙法蓮華経」は語は違うけれども、共に本未有善の衆生への下種の法である。

 『曾谷入道殿許御書』

 本已に善有るには釈迦小を以て之を将護し、本未だ善有らざるには不軽大を以て之を強毒す。(平成新編御書七七七頁)

 今は末法に入って、在世結縁の者は漸々に衰微して、権実の二機悉く尽きぬ。彼の不軽菩薩、末世に出現して毒鼓を撃たしむるの時なり。(中略)題目の五字を以て下種する由来を知らざるか。(平成新編御書七七九頁)

 三には(地涌菩薩は)娑婆世界の衆生の最初下種の菩薩なり。(平成新編御書七八四頁)

 ■この文にも菩薩が本未有善の衆生に下種したことが明らかである。

 『教行証御書』

 威音王仏の像法に大乗を知る者一人も無かりしに、不軽菩薩出現して教主説き置き給ひし二十四字を一切衆生に向かって唱へしめしがごとし。彼の二十四字を聞きし者は一人も無く亦不軽大士に値って益を得たり。是則ち前の聞法を下種とせし故なり。今も亦是くの如し。彼は像法、此は濁悪の末法。彼は初随喜の行者、此は名字の凡夫。彼は二十四字の下種、此は唯五字なり。得道の時節異なりと雖も成仏の所詮は全体是同じかるべし。(平成新編御書一一〇四頁)

 ■ここでは直に、「彼(不軽菩薩)は二十四字(南無妙法蓮華経)の下種」をしたと示している。

 『当体義抄』『総勘文抄』『顕仏未来記』『曾谷入道殿許御書』『教行証御書』等を合わせ読むと、本未有善の衆生に下種するのは仏ではなく菩薩であることが明らかとなる。日蓮聖人の遺文に「久遠下種」の文字が有るも、菩薩が下種したとの明文は有るも仏が下種したとの明文は無いので其れは仏による下種ではなく、地涌菩薩による下種である。(完)

 だだ本未有善の衆生に下種するのは菩薩だとしても、其の役目を成しているのは「地涌菩薩」と「不軽菩薩」だけである。そして興味深いのは経文には明文が無いのに日蓮聖人が殊更に、不軽菩薩の化導を「下種折伏」とし、自身を「不軽菩薩」に準えていることである。つぎは、この事について考察してみよう。これによって「日蓮本仏論」の誤りを明らかにしたいと思う。言葉を変えれば、愚人の『日蓮非本仏論』である。


  • 法介
  • URL
  • 2016/10/27 (Thu) 05:03:50
 
日蓮非本仏論 1   愚人
[25] 日蓮非本仏論 1
 投稿者: 愚人 投稿日:2016年10月15日(土)17時10分43秒 om126237001153.9.openmobile.ne.jp 通報 返信・引用 編集済
 『法門申さるべき様の事』

 仏法の滅不滅は叡山にあるべし。叡山の仏法滅せるかのゆえに異国我が朝をほろぼさんとす。(平成新編御書四三二頁)

 又日蓮房の申し候。仏菩薩並びに諸大善神をかへしまいらせん事は別の術なし、禅宗・念仏宗の寺々を一もなく失ひ、其の僧らをいま(禁)しめ、叡山の講堂を造り、霊山の釈迦牟尼仏の御魂を請じ入れたてまつらざらん外は、諸神もかへり給ふべからず、諸仏も此の国を扶け給はん事はかたしと申せ。(平成新編御書四三五頁)

 ■ここに龍ノ口刑場での宗教体験以前の日蓮聖人の立場が記されていると思う。龍ノ口宗教体験以前の日蓮聖人の自覚は叡山僧であり、願うは叡山仏法の復興である。

 なお、龍ノ口宗教体験以前の南無妙法蓮華経は、天台僧が唱えていた裏技としての南無妙法蓮華経を表技として用いたものと考える。これは法然の法華経は難行道との指摘を斥けるためであると推する。

 龍ノ口刑場での宗教体験以前の日蓮聖人の遺文には、自身を「不軽菩薩」に準え自身を「地涌菩薩」とする文は見当たらず、叡山仏法の復興を願う天台僧の日蓮聖人であったが、そこでの体験を終えると日蓮聖人の遺文には、自身を「不軽菩薩」に準え自身を「地涌菩薩」とする文が出てくる。

 文永八年十一月二十三日の『富木入道殿御返事』に、

 天台・伝教は粗釈し給へども、之を弘め残せる一大事の秘法を、此の国に初めて之を弘む。日蓮豈其の人に非ずや。(中略)法已に顕はれぬ。前相前代に超過せり。日蓮粗之を勘ふるに、是時の然らしむる故なり。経に云はく「四導師有り、一を上行と名づく」云云。(平成新編御書四八七・四八八頁)

 ■この文において初めて日蓮聖人は、南無妙法蓮華経を「一大事の秘法」とし自身を「上行菩薩」としている。愚人が思うに、龍ノ口刑場での「発迹顕本」とは

 叡山僧との迹を発って、上行菩薩との本地を顕す

事であると推する。

   (続く)


[26] 日蓮非本仏論 1 補足
 投稿者: 愚人 投稿日:2016年10月15日(土)23時24分27秒 softbank126074100123.bbtec.net 通報 返信・引用 編集済
 【天台僧の唱えた南無妙法蓮華経】

 春秋社刊『シリーズ日蓮1 法華経と日蓮』

 Ⅲ 日本における法華思想の展開

 第4章 中古天台と法華経 花野充道

 その『修善寺決』には無相行と有相行について、次のように説かれている。

 一心三観の観心行に、別時と常用と臨終の三種がある。臨終の一心三観は、通常の別時や常用の行と異なり、臨終の時に南無妙法蓮華経と唱える行である。別時や常用の観心行は、生仏不二(衆生と仏の円融不二)の真理を悟る無相の行であるが、この臨終の観心行は、法華の首題を唱える有相の行である。(伝全五、七一 ー 七五)

 有相の行においては礼拝の行を用うる。十界の形像をそれぞれ絵に図して十処に安置し、一像に向かうたび百遍ずつ礼拝して、南無妙法蓮華経と唱えなさい。地獄を図した像に向かっては、地獄の当体が即空即仮即中であると観じ、仏を図した像に向かっては、同じように仏の当体が即空即仮即中であると観じなさい。天台大師は末世の鈍機(能力の劣った末法の衆生)のために、密かにこの有相の行を授けられたのである。(伝全五、一○九)

 このような『修善寺決』の説は、天台の最上の無相行(理観)に堪えられない末世の鈍機や、臨終の時の有相行として法華の唱題を勧めている点で、源信の『往生要集』が弥陀の口称を勧めていることと軌を一にしている。(法華経と日蓮232ページ)

 ■龍ノ口刑場での宗教体験以前の日蓮聖人が唱えた南無妙法蓮華経は、この天台僧の唱えた「法華の題目」を広く民衆に勧めたものであろうと推する。

 日蓮聖人の顕した曼荼羅本尊は、天台僧が「十界の形像をそれぞれ絵に図して十処に安置し」て礼拝し南無妙法蓮華経と唱題していたのを簡略化して、「一幅の十界文字曼荼羅として一処に安置し」て礼拝し南無妙法蓮華経と唱題させたものとも推する。

  • 法介
  • URL
  • 2016/10/27 (Thu) 05:05:32
 
日蓮非本仏論 2   愚人
[35] 日蓮非本仏論 2
 投稿者: 愚人 投稿日:2016年10月17日(月)20時06分32秒 softbank126074078035.bbtec.net 通報 返信・引用
 日蓮聖人が、不軽菩薩の化導を下種折伏としている文。

 『顕仏未来記』

 此の人は守護の力を得て本門の本尊、妙法蓮華経の五字を以て閻浮提に広宣流布せしめんか。例せば威音王仏の像法の時、不軽菩薩「我深敬」等の二十四字を以て彼の土に広宣流布し、一国の杖木等の大難を招きしが如し。彼の二十四字と此の五字と其の語殊なりと雖ども其の意之同じ。彼の像法の末と是の末法の初めと全く同じ。(平成新編御書六七六・六七七頁)

 『教行証御書』

 威音王仏の像法に大乗を知る者一人も無かりしに、不軽菩薩出現して教主説き置き給ひし二十四字を一切衆生に向かって唱へしめしがごとし。彼の二十四字を聞きし者は一人も無く亦不軽大士に値って益を得たり。是則ち前の聞法を下種とせし故なり。今も亦是くの如し。彼は像法、此は濁あくの末法。彼は初随喜の行者、此は名字の凡夫。彼は二十四字の下種、此は唯五字なり。得道の時節異なりと雖も成仏の所詮は全体是同じかるべし。(平成新編御書一一〇四頁)

 ■両御抄ともに、不軽菩薩の化導も日蓮聖人の化導も下種としています。

 日蓮聖人は仏が下種をした明文は示していないが、不軽菩薩と地涌菩薩の下種の明文は示している。つまり下種をするのは菩薩であり仏ではない。であるならば、「菩薩下種」を主張している日蓮聖人に「本仏の自覚」が有るわけがないと愚人は思う。

  • 法介
  • URL
  • 2016/10/27 (Thu) 05:07:51
 
質問!   法介
[36] 質問!
 投稿者: 法介 投稿日:2016年10月17日(月)22時29分7秒 p1139105-ipngn200808fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp 通報 返信・引用 編集済
|
愚人さんへ質問させて頂きます。

末法に於いて下種をするのは我々衆生(地涌の菩薩の眷属)だと私は思っています。折伏行=下種だと受け止めていますので。
では、その種は何を持って種とするのかが大事なところだと思います。

そこで愚人さんに質問です。

①愚人さんはその種とは何だと考えておられますか?
(法華経? 南無妙法蓮華経? 妙法蓮華経? それともお釈迦様の仏像?)

それともう1つ、

愚人さんがいわれるように大聖人様に「本仏の自覚」が無かったとするならば、

②大聖人様が顕された曼荼羅ご本尊は、何だとお考えになりかすか?

最後に、

③お釈迦様は御本仏を顕されたと思いますか?

「日蓮非本仏論」を拝見させて頂いて以上の疑問が沸いてきましたので質問させて頂きます。
  • 法介
  • URL
  • 2016/10/27 (Thu) 05:08:43
 
答う   愚人
[37] 答う
 投稿者: 愚人 投稿日:2016年10月18日(火)05時40分10秒 softbank126074087160.bbtec.net 通報 返信・引用
 そこで愚人さんに質問です。

 ■はい。

①愚人さんはその種とは何だと考えておられますか?
(法華経? 南無妙法蓮華経? 妙法蓮華経? それともお釈迦様の仏像?)


 ■日蓮聖人の遺文に、

 本門の寿量品の肝心たる南無妙法蓮華経の五字を、一閻浮提の一切衆生に唱へさせ給ふ(平成新編御書一一四〇頁)

 南無妙法蓮華経の五字を日本国の一切衆生にさづけ給ふべきよし経文分明なり(平成新編御書一四三五)

とありますから、南無妙法蓮華経/妙法蓮華経ともに種となると思います。法華経/釈迦像はともに種ではないと思います。


 それともう1つ、


 愚人さんがいわれるように大聖人様に「本仏の自覚」が無かったとするならば、

 ②大聖人様が顕された曼荼羅ご本尊は、何だとお考えになりかすか?


 ■『百六箇抄』に「無上の種子」とある通り、【南無妙法蓮華経】と認められた曼荼羅本尊は種であり【境】であると思います。



 最後に、

 ③お釈迦様は御本仏を顕されたと思いますか?


 ■愚人の脳ミソでは質問の意味が解りませんが・・・トホホ。敢えて答えれば、法華経に五百塵点劫の成道が明かされていて、御釈迦様には本仏としての自覚は有ったと思います。

  • 法介
  • URL
  • 2016/10/27 (Thu) 05:10:42
 
矛盾を問う  法介
[38] 矛盾を問う
 投稿者: 法介 投稿日:2016年10月18日(火)07時02分21秒 p1139105-ipngn200808fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp 通報 返信・引用
|
まず最初の質問、

①愚人さんはその種とは何だと考えておられますか?
(法華経? 南無妙法蓮華経? 妙法蓮華経? それともお釈迦様の仏像?)

>南無妙法蓮華経/妙法蓮華経ともに種となると思います。法華経/釈迦像はともに種ではないと思います。


2つ目の質問

②大聖人様が顕された曼荼羅ご本尊は、何だとお考えになりかすか?

>『百六箇抄』に「無上の種子」とある通り、【南無妙法蓮華経】と認められた曼荼羅本尊は種であり【境】であると思います。


3つ目の質問

③お釈迦様は御本仏を顕されたと思いますか?

>法華経に五百塵点劫の成道が明かされていて、御釈迦様には本仏としての自覚は有ったと思います。


愚人さんの返答内容に矛盾を感じる点がありますので確認の為、さらにもう1つ質問させて下さい。

③の質問に対する返答内容ですが、愚人さんは「御釈迦様には本仏としての自覚は有ったと思います。」とお答えされていますので

お釈迦様は「ご本仏」だと考えておられる訳ですよね。そして「日蓮非本仏論」を主張されている訳ですから、

①の私の質問の愚人さんの回答は、「お釈迦様の仏像」ということになるのではないでしょうか?

その点、矛盾を感じますのでどのようにお考えなのかご説明お願いします。

  • 法介
  • URL
  • 2016/10/27 (Thu) 05:11:41
 
答へて曰く、  愚人
[39] 答へて曰く、
 投稿者: 愚人 投稿日:2016年10月18日(火)09時27分38秒 om126237002128.9.openmobile.ne.jp 通報 返信・引用
 遺文集が無いので遺文は引きません。

③の質問に対する返答内容ですが、愚人さんは「御釈迦様には本仏としての自覚は有ったと思います。」とお答えされていますので

お釈迦様は「ご本仏」だと考えておられる訳ですよね。そして「日蓮非本仏論」を主張されている訳ですから、

①の私の質問の愚人さんの回答は、「お釈迦様の仏像」ということになるのではないでしょうか?

その点、矛盾を感じますのでどのようにお考えなのかご説明お願いします。


 ■日蓮聖人は『三大秘法抄』で、三大秘法は霊鷲山にて釈迦仏から附嘱された書いている。つまり、日蓮には、釈迦仏から南無妙法蓮華経の下種を委ねられたわけです。その中の本尊とは、日蓮聖人の化導をみれば曼荼羅本尊であり、日蓮聖人も曼荼羅本尊を霊鷲山にて釈迦仏から附嘱されたと他の遺文にも書いています。

 『曾谷入道殿許御書』にあるように、地涌菩薩は五百塵点劫に於いて一切衆生に南無妙法蓮華経を下種したのですから末法に於いても南無妙法蓮華経を以て下種するのです。不軽菩薩の下種も南無妙法蓮華経です。

 釈迦仏からの附嘱ですから、矛盾は無いと思います。

  • 法介
  • URL
  • 2016/10/27 (Thu) 05:12:26
 
私の考察  法介
[40] 私の考察
 投稿者: 法介 投稿日:2016年10月18日(火)10時25分32秒 p1139105-ipngn200808fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp 通報 返信・引用 編集済
|
ということは,

お釈迦様は「南無妙法蓮華経」を知っていた。しかし自身では、その「南無妙法蓮華経」を顕さずに

上行菩薩である日蓮大聖人様に附嘱され、附嘱された大聖人様が末法に於いて

「南無妙法蓮華経」を曼荼羅のご本尊として顕された。

と愚人さんは考えているということですね。


そうであれば、ここまでは私も異論はありませんし賛同できます。

しかし、ここから更にお尋ねしたいことがあります。

それは何かといいますと、

「お釈迦様は何故、ご自分で「南無妙法蓮華経」そして曼荼羅ご本尊を顕さなかったのか」ということです。

その問いに対しおそらく愚人さんならば、

それは「時」(正法・像法・末法の三時)と衆生の「機根」の問題であるという話をされるものと考えます。


そうであれば、愚人さんの論理は、矛盾する点もなく論として成り立っていると思います。

しかし、私はそういった愚人さんの「日蓮非本仏論」を(間違っていないと)理解しても尚、

日蓮大聖人様が本仏であると考えます。


その主張を「一念三千論」と題して何故、日蓮大聖人様が本仏であるかということを

考察としてまとめてみますのでしばらくお待ち下さい。

  • 法介
  • URL
  • 2016/10/27 (Thu) 05:13:23
 
「一念三千論」-①   法介
[42] 「一念三千論」-①
 投稿者: 法介 投稿日:2016年10月18日(火)19時41分35秒 p1139105-ipngn200808fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp 通報 返信・引用 編集済
|

まず、私の考察をまとめるにあたって
要点を先に述べておきます。

釈迦本仏論をとなえる宗派や学識者は沢山おられます。
またネットの中でもそういった論議が結構おこなわれているようでもあります。

それは御書に於いて、
大聖人様ご自身が本仏である旨を明確に書き残しておられない事が
そういった論争を引き起こしているようにも思えます。


しかし、大聖人様が御書の中で説かれている「一念三千の法門」を正しく理解出来ている人にとっては、
日蓮大聖人様が本仏であるという事は論ずるまでもないくらい明確なことです。

なので「一念三千論」と題して私の主張をまとめてみたいと思います。

まとめて仕上げようと思うと気が重くなるので、
随時投稿していきます(つづく形式)ので、
そのつど質問がある場合は質問されて下さい。


愚人さんとは再三意見交流をしてきました「空論」あたりから話をはじめたいと思います。
まず「一心三観」ですが、その解釈は愚人さんも前に提示しておりました通り
以下のような内容になるとかと思います。


<一心三観>

仮観---有

空観---非有非無

中観---而二不二(亦有亦無)

この場合中観は「仮」に捕われず「空」にも偏らない、中道として仮と空の両面を捉える「而二不二」な訳ですから、
「亦有亦無」(有であり無でもある)になると思います。


この「一心三観」は一心に三観を観じようとする像法時代に天台大師が説かれた瞑想法です。

正法・像法時代の衆生は、過去に仏様と仏縁がある本已有善の衆生ですから、

そのような瞑想修行で自身の六識・七識を消滅させていくことで更にその下に眠っている過去世での仏縁を感じとり
http://mh357.web.fc2.com/2-3.html 2-3.九識論
それを縁として仏界を感じ、悟りを得て成仏へと向かったと思われます。

しかし、末法の衆生は過去に仏と全く縁がない本未有善の衆生ですから、
末法に於いて「一心三観」の瞑想修行をやってもそこにあるのは凡夫の迷いの一念でしかありません。


「一心三観」は末法の時代に於いては悟りにたどり着くには不十分な修行法なのです。


その像法時代にあって天台大師は『摩訶止観』の中で既に一念三千の法理も説きあらわしています。
その天台が説く一念三千の仕組みを理解できた像法時代の本已有善の修行者は、
後は一心三観の止観法(瞑想法)でその仏縁にアプローチして悟りを得ることが出来たのでしょう。


それに対して、仏縁を持たない末法の衆生が成仏にたどり着くには、
まず仏縁が必ず必要になってきます。
そしてその仏縁から悟りを導きだしていく修行が必要になってきます。

その修行方法が我々が朝夕に行う勤行・唱題行なのですが、
その勤行・唱題をするとどうして本未有善の末法の衆生が
仏の悟りを得ることができるのかを説いているのが一念三千の法門なのです。


その一念三千は空諦・仮諦・中諦のそれぞれの仏様の悟りから成り立っています。


では、空・仮・中の三諦を日蓮正宗「三大秘法義」の三三九諦の図を用いて説明していきます。

http://mh357.web.fc2.com/image723.gif

まず仮諦ですが図の中で次のように書かれています。

<仮諦>

仮---立有

空---泯空

中---泯立融法

具体的に解説しますと、有(実態)が立ちあがって空が消滅(泯)している、
ということは有=実態に執着している状態です。


しかし立ち上がっているその実態を消滅(泯)させて(泯立)
縁起の法門という仏の悟りを得ることで実態(仮)は縁起の法門によって仮にあらわれている百界の相と悟ります。
なので大聖人様は「百界と云うは仮諦なり」と仰せです。

だから泯立融法という説明書きがついているのだと思います。


ご本尊様と向き合うという姿勢が仏縁となってこの仮諦の悟りを得ることが出来ます。




次に空諦ですが、

<空諦>

仮---立空

空---泯有

中---泯立融法


実態(仮)を色即是空と捉えることで空が立ち上がるので「仮---立空」となります。

立ち上がった空(色即是空と捉える)によって有(実態)が消滅しますので「空---泯有」となります。

それによって、対象となる方には実態も本質も無い「無我・無自称」であると理解するに至るので、
原因は自身の方にあるという因果の法理を悟りえます。

立ち上がった空(色即是空)を更に消滅(泯)させて因果(十如是)を悟る訳ですから
「泯立融法」となります。(仮と空を消滅させて因果をみる=千如)「千如と云うは空諦なり」の御文です。


そして中諦は、


<中諦>

仮---双立空有

空---双泯空有

中---双遮双容

仮=双立空有なので「亦有亦無」であり、空=双泯空有なので「非有非無」です。
これはどういう意味なのかといいますと、

仮(亦有亦無)は有であり無であると捉える訳ですから、有無の「分別の世界」(娑婆世界=生)です。
生死の分別にとらわれている我々凡夫の姿もこの「仮」にあたります。

空(非有非無)は有でなく無でもない訳ですから有・無の判別が成立しない「無分別の世界」(肉体の存在しない世界=死)となります。

中は「双遮双容」でそのどちらも否定しかつどちらも肯定する訳ですから、
仏様の究極の悟り(仏界の中の仏界)は分別・無分別を超えたところにあるということでしょう。

分別の世界=娑婆世界(生)
無分別の世界=魂の世界(死)

ととらえた場合、生死を超えたところに仏様の究極の悟り(仏界の中の仏界)はあるということになります。

その仏様の究極の悟り(仏界の中の仏界)が仏様の智慧(無分別智)であり悟りであり真実だと思います。
以上の説明で http://mh357.web.fc2.com/3-7-1.html の図2の説明がより理解出来るかと思います。


わかり易く言えば、分別が人々の苦しみを生み出す根源であることは
ここ↓で説明しました。
http://mh357.web.fc2.com/2-1.html 2-1.分別

その分別に執着している限り人々は苦しみから逃れられません。


だから仏様は無分別法を説かれ↓
http://mh357.web.fc2.com/2-2.html 2-2.無分別

人々を執着から離れさせようとしました。


しかし、人々は分別法があるから物事の判断が出来る訳で
その判断基準である分別が無くなってしまっては、物事の判断が全く出来ない状態に陥ります。


なので衆生が正しい判断が出来るように一念三千の法(仏の智慧)を顕されたのです。

それが「曼荼羅ご本尊」様であり「南無妙法蓮華経」なのです。


つづく
  • 法介
  • URL
  • 2016/10/27 (Thu) 05:14:59
 
「一念三千論」-②   法介
[43] 「一念三千論」-②
 投稿者: 法介 投稿日:2016年10月19日(水)05時11分35秒 p1139105-ipngn200808fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp 通報 返信・引用 編集済
|

御書の「一念三千法門」の中で大聖人様は、

「一念三千の観念も一心三観の観法も」

という表現をなされています。この表現からもわかると思うのですが
一心三観はこころで観じとる修行法「観法」であるのに対し
一念三千は「観念」といわれております。

「観念」とは、

  あるものについていだく意識内容。
  哲学で人間が意識の対象についてもつ主観的な像。表象。
  心理学的には、具体的なものがなくても、それについて心に残る印象。

といった意味あいの言葉でして、
一念三千が「意識」というものが大きく関わっているということがご理解頂けるかと思います。

一念三千を単に数学的に
   10(十界)×10(十界)×10(十如是)×3(三世間)=3000(三千世界)
で、「生命は実に三千の種類があってこの我々が住む世界は三千世界で成り立っているんです」
などといった客観的に生命を認識するお話ではないのです。

意識を空・仮・中へと転じていく三諦の円融を説かれたお話なのです。

お題目を唱えている時、「はぁ」と気づくことが良くあります。
先ほども深夜の唱題行をやっておりましたところ、その「意識」について思い浮かんだ事がありましたので
忘れないうちに書き綴っておきます。


「意識」と聞いて直ぐに思い浮かぶのが「九識論」ですが、
「一念三千」と「九識論」の関係性のお話です。

「九識論」の詳細はこちらで解説していますので省略しますが
http://mh357.web.fc2.com/2-3.html 2-3.九識論

我々人間が意識として認識しやすい部分、それが俗にいう「五感」ですが
六道が輪廻する仕組みは、ここにあるのかなと思うのです。

目で識別することで立ち上がる分別。
耳で聞き分けることで立ち上がる分別。
鼻で嗅ぎ分けることで立ち上がる分別。
口で味分けることで立ち上がる分別。
肌で感じ分けることで立ち上がる分別。
そしてそれらを意識として統合して分別する六識。

我々が日常生活する中でここまでの六識という「意識」の中で、
感じ取った様々な出来事を言葉というこれも分別によって作られた表現方法を用いて
他者と会話したり自身の頭の中で思いを巡らしたりして生きています。

そう考えると、この六識層によって生じる「分別」が「六道輪廻」の正体ということがわかったような気がします。

唱題行という修行は、この六識層によって立ち上がる「分別」を消滅(泯)させて
更にそこから深い深層意識へ入り込んでいき、
自身の過去遠々劫(かこおんのんごう)以来積み重ねてきた様々な悪業・罪業(八識に蓄積されている)を
意識として感じ取っていくことなのかもしれません。

そして第九識の「仏識」を、大聖人様は、「九識心王真如の都」とも「南無妙法蓮華経」とも呼ばれました。
意識層の奥底とされる「南無妙法蓮華経」を唱える訳ですからその上の層に蓄積された悪業・罪業が洗い流されていく訳ですね。

つづく
  • 法介
  • URL
  • 2016/10/27 (Thu) 05:16:03
 
一念三千 無始無終  愚人
[44] 一念三千 無始無終
 投稿者: 愚人 投稿日:2016年10月19日(水)05時17分45秒 softbank126074105153.bbtec.net 通報 返信・引用
 たとえばここに網があるとします。その網の目はひとつひとつ独立した目ですが、そのひとつの目をつまめば、すべての目がそれに引かれて動きます。またその網が何かを捕獲するためのものであれば、すべての目が必要であり、独立した網の目ひとつでは何の役にも立ちません。
 私たちは自分が他と異なる独自の特性を持ち、周囲の世界とは別の存在であると考えて生活しています。しかしそうした世界は、自然環境も人間社会も、網の目のように、すべて無限に関わり合いつつ存在しているのです。〔大正大学出版会刊 天台宗教学振興委員会/多田孝正(天台学研究室 代表)編集 『伝教大師の生涯と教え』78頁〕

 ■最近、『伝教大師の生涯と教え』を読んでいます。法華経や天台・伝教の教えが易しく書いています。私たちは皆が繋がっているのですぬ。正しく、一念三千です。


 時間は過去・現在・未来とに分けられますが、それらは独立してあるわけではありません。過去だけの世界、未来だけの世界というものは存在しません。現在は過去と未来を兼ねそなえた存在であり、過去も未来も同様です。つまり過去・現在・未来が融け合った世界以外にこの世界はないのが真実で、私たちは、この滔々と流れる時間の中で、過去・現在・未来を融け合わせて生きなければならないのです。〔伝教大師の生涯と教え 79頁〕

 ■違うかもしれませんが愚人は、この文を「無始無終」の説明と感じました。無始無終とは、過去・現在・未来が融け合っていること。そう考えれば良いのですね。

[45] 深夜族
 投稿者: 法介 投稿日:2016年10月19日(水)05時34分51秒 p1139105-ipngn200808fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp 通報 返信・引用
|
相変わらず愚人さんも深夜族ですね^^

>違うかもしれませんが愚人は、この文を「無始無終」の説明と感じました。
>無始無終とは、過去・現在・未来が融け合っていること。そう考えれば良いのですね。

そのことに関連することがありますので、それを文章にまとめてみますね。ちょっと待っててください。

[46] 円融三諦
 投稿者: 愚人 投稿日:2016年10月19日(水)05時44分9秒 om126212181011.14.openmobile.ne.jp 通報 返信・引用
 私たちの自己と周囲は、本来は融和しており、表面的に見たものや自分の心が、常にそのまま存在することはあり得ません。たとえば、網の目一部分を、流れる時間の中で一瞬垣間見たとしても、それは全体を見たことにはなりません。私たちの目に見える世界は、そのような世界ですから、本来それらはなんら真実としての実体は存在しない、というものの見方ができるようにならなければなりません。
 しかし常識や現実を否定するだけでは、世間も自分も見えなくなり、自分自身をも否定してしまいます。ですから、自分も目前の周囲も、大きな世界と時間の中で多くの人々や環境のおかげによって存在していることを、認めることが必要です。そして自分は、それらに縁って生かされていると自覚しなければなりません。
 常識や現実の否定と肯定とが別々に起こると、互いに融和している世界を見る真実の智慧の障害となります。ですからこの否定と肯定のものの見方にも、とらわれないようにしなければなりません。これらのような見方は一体のものであり、一瞬の心のはたらきの中にこれらの見方がなされることを目指すのが仏に近づく方法の一つです。(伝教大師の生涯と教え 80・81頁)

 ■このように見れるように愚人も努力します。

[47] 2007-03-29 02:37:25 の法介のブログ記事
 投稿者: 法介 投稿日:2016年10月19日(水)06時34分9秒 p1139105-ipngn200808fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp 通報 返信・引用 編集済
|
昨日、テレビ東京系列でドラマスペシャル 「復讐するは我にあり」が放映されていた。

柳葉敏郎扮する殺人犯の榎津巌が、どうしてこのような凶悪犯罪に至ったかを少年期の出来事などを通して、
彼の人格が崩れていくさまを鋭く描き出していた。


以前、奈良少女殺害事件の被告小林薫の死刑判決が下った際、
小林被告の弁護士が朝のワイドショーに出演し、妻がその番組を見ていたらしく、
その時の様子を語ってくれた事があった。

妻の話では、弁護士が、
小林被告が幼時期に母親を亡くし様々ないじめのを受ける中で
次第に人格が崩れて行った経緯を説明しだすとゲスト陣がいっせいに反論。

「そんないいわけ通じませんよ」「彼は反省してるんですか!」と噛み付く有様。

「この様な不幸な事件が今後起こらないようにする為にも、
  被告がなぜその様な犯行に至ったかを掘り下げて追求し、それを訴える為に私はここに来ました。」

と、弁護士が一生懸命訴えるが司会者までも批判を繰り返すだけで、
そこに至った経緯を全く理解しようとしない。

結局、弁護士の

「あんたらにはわかんないだろうよ」

といった無力感とあきらめに満ちた苦しい顔がアップされてそのコーナーは終わったらしい。

本人がどうしてそのような人格に崩れてしまったのか、そこ(原意追求)が一番大事なのに、
結果だけをことさら取り上げて批判を繰り返す。

物事を深く掘り下げて考える事をしない日本人の悪しき風潮が如実に現れた一場面であっただろう。
妻も「どうしてそこを分かろうとしないの」と呆れ返って語っていた。

その根本的要因を我々一人一人が真摯に受け止めていかない限り同じような犯罪人格者を世の中が生み出していくだろう。
これは決して個々人の問題では無い。なぜなら人間は決して独立して存在しえるものでは無いのだから。

以上 2007-03-29 02:37:25 の法介の過去ブログ記事でした。


[48] 「亦有亦無」「非有非無」
 投稿者: 法介 投稿日:2016年10月19日(水)07時15分33秒 p1139105-ipngn200808fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp 通報 返信・引用 編集済
|
私はよく子供達に

「物事を一念三千でみていきなさい。」

と言います。

例えば、学校で自分にいじわるな事をしてくる同級生がいたとき、

  「なんでこの子はこんな事をするのかな?」

   と相手の立場になって考えてごらん。勝手な創造でもいいよ。
   この子は幼い頃から両親にかまってもらえず
   親から十分な愛情を受けれないまま育って
   その満たされない思いのはけ口として
   こんな意地悪をしてくるのかなーって思うと、
   この子、可愛そうな子なんだって思うでしょ。
   そしたら、その子に対する憎しみが消えるよね。

といった感じでその子をとりまく衆生世間の話をしてみたり

友達と意見が衝突して仲たがいしたりした時は、

   人はそれぞれ育った環境が違うんだよ。
   家はいつもお父さんがこうやって色んな話でもって
   あなた達が理解出来るように根気良く対話するけども、
   頭ごなしに親の価値観を押し付けようとする親だって沢山いるんだよ。

と五陰世間や衆生世間の違いからくる差違を話したりと
いつも私の話のいきつくところは「一念三千」なのです。

「一念三千」といっても学会や宗門がいってる
客観認識として語る「一念三千」も間違いなく「一念三千」です。
それは有であり無でもある(亦有亦無)という「分別の法」としての一心三観でとらえた「一念三千」であり、
ここまで私が語ってきた心の所作を捉えた「一念三千論」も 「非有非無」(無分別法)の「一念三千」です。

「分別の法」としての「一念三千」
「無分別法」としての「一念三千」

そして分別・無分別を超えた

「仏の法」としての「一念三千」

一念三千といいましてもこのように様々でして
「凡夫の一念三千」と「仏の一念三千」のたて分も御書の中では明記されています。

中でも「理の一念三千」と「事の一念三千」は、今回の論説に於いて重要なポイントになってきますので、
次に「理の一念三千」と「事の一念三千」について文章をまとめてまいります。

つづく


[49] 愚人さん
 投稿者: 法介 投稿日:2016年10月19日(水)08時43分55秒 p1139105-ipngn200808fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp 通報 返信・引用 編集済
|
私が分別・無分別を説明する為に用いました御抄、三世諸仏総勘文教相廃立 (総勘文抄)の中に

「過去と未来と現在とは三なりと雖も 一念の心中の理なれば無分別なり」

「生と死と二つの理は生死の夢の理なり妄想なり顛倒なり
 本覚の寤を以て我が心性を糾せば生ず可き始めも無きが故に
  死す可き終りも無し既に生死を離れたる心法に非ずや」

との御文があります。

>違うかもしれませんが愚人は、この文を「無始無終」の説明と感じました。
>無始無終とは、過去・現在・未来が融け合っていること。そう考えれば良いのですね。

多田孝正氏が語っているその部分は正にそういうことだと私も思います。

「無分別法」でとらえた時、生と死の分別も無くなる訳ですから「始めも無きが故に 死す可き終りも無し」ということでしょう。
(無分別法としての十如是の因果による過去・現在・未来の意も多田孝正氏の文からは感じられますね)



  • 法介
  • URL
  • 2016/10/27 (Thu) 05:17:02
 
「一念三千論」-③   法介
[50] 「一念三千論」-③
 投稿者: 法介 投稿日:2016年10月19日(水)17時39分57秒 p1139105-ipngn200808fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp 通報 返信・引用 編集済
|
一瞬一瞬の動きの中で人は絶えず脳で判断を下し、
どう行動に転ずるか体に指示を送って生きています。
その一瞬の動きを細かく説きあわわした法が「十如是」です。

十如是の詳しい説明はここで述べていますので省略します。
http://mh357.web.fc2.com/3-2.html 3-2.十如是


一瞬一瞬の判断の連続が人の人生を形成していきますので、
誤った判断をしてしまうと自らの人生を自らの判断で苦しみの人生に作り上げてしまいます。
そういった誤った判断をしなくて済むように人類は沢山の分別を作り出してもきました。

ある人は一流の大学を出れば成功の人生を掴めると思い込んで、
ある人は仕事で成功することが幸福への道筋だと思い込んで、
ある人は幸せな家庭をつくりあげることが幸福の姿だと思い込んで

先人の書いた書物を読みあさってその術を学んだり、
先輩や親や教師などから人生哲学を学んだり、

しかし、そういう道を辿ってもなお、不幸が付きまとうのが現実の人生です。
「生老病死」の苦しみを誰一人として避けることは出来ないのですから。

その苦しみの原因が分別から生じているからこそ、分別に執着しない判断が大事になってくるのです。

それが「無分別法の判断」であり、その分別・無分別を超えたところの仏の智慧「無分別智の判断」です。


信心をしていなくても天台の教学や日蓮仏法を学べば、
縁起の法門や因果の法則、一念三千などの法理は知識として身につけられます。
そういった知識をもってくだす判断は、より間違いの無い判断へと近づけるでしょう。

その場合の判断は、「無分別法の判断」で非有非無の一念三千(一心三観の空観)にあたると思います。

像法時代であれば過去の仏縁を因として仏の悟りを取り出せたかも知れませんが、
末法の時代の天台の一念三千は、
「理」として仏の悟り(法理)を理解して判断するという「理の一念三千」でしかありません。

仏縁が存在しない一念三千は所詮、迷いの凡夫の一念三千です。

例えて言うなら、
癌で苦しんでいる人が、仏法を学ぶことで
実は自身の過去の悪業が原因でこのような大病に苦しまされているのだ、
と理解できたとします。しかし
身に覚えの無い過去世の話は、頭でしか理解出来ません。

  「あなたね、昔、酔った勢いで私の頭を思いっきりぶん殴ったのよ!」

と人から言われても当の本人は全く記憶にありません。

  「あやまってくれ!」

といわれましても、

  「わかった。わかった。謝るよ、ごめん!」

程度の謝罪です。しかし
その時の様子を収めたビデオが出てきて、

  「ほら! ここよ! ここ! 明らかにあなた殴っているでしょ!」

とその瞬間の映像を突きつけられた時、

  「本当だ・・・俺殴ってる・・・」

と心の底から自覚出来た時、

  「申し訳ありませんでした!」

と心の底から謝ると同時に自己反省出来るものです。

人は心の奥底から自覚、自己反省が出来てはじめて罪障が消滅していくのです。

なぜ過去世の自身の悪業を自覚出来るかは、既にお話してきましたとおり、
「南無妙法蓮華経」が、「九識心王真如の都」にあたる生命の奥底の法だからです。

これが「理」ではなく「事」としての一念三千、
すなわち、空・仮・中の中諦の悟りの一念三千です。

この自覚、自己反省に至る修行が勤行・唱題で
それによって得られる悟りが無分別智の仏の智慧「事の一念三千」の悟りです。

http://mh357.web.fc2.com/3-7-2.html 3-7.一念三千の法門-(2)


つづく

  • 法介
  • URL
  • 2016/10/27 (Thu) 05:20:20
 
「一念三千論」-④  法介
[51] 「一念三千論」-④
 投稿者: 法介 投稿日:2016年10月20日(木)04時07分50秒 p1139105-ipngn200808fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp 通報 返信・引用 編集済
|

一念三千を語るうえでもう一つ話しておきたい大事なことがあります。

「観念」と「観法」の違いのところでお話ましたが
一念三千は観念と大聖人様がいわれておりますように
「意識」が大きく関係しています。

例えば、友人を折伏している場面を想像してみてください。

相手は念仏の業でこり固まったような性格の人物で
いくら話をしてもどうとう巡りの会話に陥って
いい加減折伏している方もイライラしてきます。

その場合の「イライラ」は、何が原因で生じているのか考えてみましょう。
普通、このような場合

「こいつ、いい加減にしろよ。それさっきも言ったじゃないか・・・」

と、相手の事を批判的な目でみてしまいます。その時の自分の意識は、


   自分>>>>>>>>>>>>>>>友人
     意識の方向→


という感じで友人の方に意識が向いています。
なんてわからない人なんだろうという意識が相手に対して働き
「イライラ」が自分の中で生じています。

あげくの果てに

「無理だ、こいついくら話しても無駄だ」

と三行半(みくだりはん)を下して友人と別れます。
しかし家に帰ってご本尊様にその友人の事を祈りながら唱題していると
友人に対する「イライラ」が静まり今まで友人に向いてた意識が自分の方に向きだします。

なぜなら、対象には実体も本質もない「無我・無自称」なんですよと※(注) 日頃から教えられているからです。

対象である友人の方は「無」であるならば、この自分の「イライラ」は何が原因で起きているんだろう?
図で示したらこんな感じです。


             (無我・無自称)
   自分<<<<<<<<<<<<<<<友人
      ←意識の方向


今まで友人に向いていた意識が自分に向かいだします。

対象の方には実体も本質も無い「無我・無自称」と捉えた時、
相手は「無」なのだからそこに原因は無いと判断します。
そう判断することで相手に向けられていた意識は自分に向かいます。
そしてイライラの原因は自分が作り出しているんだと気づきます。

「友人を理解させえるだけの力を自分が持ち合わせていないんだ!」

と、最終的に気づきます。そして

「よし! もっと自分を磨こう」

と更に信心に励む法介くんなのです^^

人間って「あいつが悪い、これが悪い」ってすぐに人のせいにして愚痴ったり非難したりしがちです。
そうすると自分が楽だから。
でも本当は全て自分に原因があるんですよと説いているのが大聖人様の仏法なんです。
だから「己心の法」と大聖人様は言われているのです。
「あいつが悪い、これが悪い」って言っている人は「心外の法」になっているんです。

つづく

※注 日頃から教えられていないとそう思えません。だから説法(正しい)が大事なのではないでしょうか。



[52] 息子のブログ
 投稿者: 法介 投稿日:2016年10月20日(木)18時26分13秒 p1139105-ipngn200808fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp 通報 返信・引用
|
息子がブログをやってて、どんな事を書いてるのかちょっと覗いてみた。
意外と良いこと書いてあったので紹介します。


--------------------------------------------------------------------------------------

自分磨きとは、単なるスキルアップ等ではない。
技術を「ただの技術」として身につけても、それは本物の技術ではない。
その技術を生み出した「心」を身につけてこそ、はじめて本物の技術と呼べる。
素晴らしい技術が心ない人の私利私欲に利用され、人を惑わせ、苦しめることは多々ある。
心ないものに操られてはいけない。人の心を真に動かすのは心だけである。

自分磨きとは、それは即ち「心の鏡」を磨くことである。
人は他人や世間を見る時、必ず自分というフィルターを通して見ている。
要するに自分の鏡に映ったものを見て判断しているわけだ。

鏡というのは、汚れていたら綺麗に見えない。
ありのままの姿を映し出すことができないわけだ。
つまり、自分の心の鏡が汚れていたら、見るもの全てが汚れて見える。
汚れているものはもちろんのこと、本来綺麗なものまで汚れて見えてしまう。
鏡が綺麗であればあるほど、ありのままの姿を映し出すことができる。

他人や世間の文句ばかり言っているような人は、自分の心の鏡が汚れている証拠である。
他人や世間というものは個として存在するものではない。その実体はどこにも存在しない。
全て自分というフィルターを通して、自分の鏡に映ったものでしかない。
すなわち、世界というものは自分の心の中にしか存在しない。
その目には見えない心が鏡の映し合いによって縁として表れているだけに過ぎない。

それは何も他人や世間に限らず、自分が自分と認識している人間もまた同じである。
自分という存在もまた、他人や世間を映し鏡として認識している姿に過ぎない。
その実体が個として存在しているわけではないのだ。
全ては縁によって仮に表れている姿に過ぎず、その実体は空である。
その仮の姿が実体なわけでもなく、姿として仮にも表れているわけだから完全な空でもない。
そのどちらにも偏らないがどちらの要素も含んでいる、ありのままの姿こそがそのまま真実なわけだ。

だからどんなに他人や世間に不満があっても、
それは他人や世間に問題があるのではなく、もしかしたら自分の鏡が汚れてるのかもしれないと、
相手や世間のせいにせず、ひたすらに自分の心の鏡を磨き続ける姿勢が何よりも大切である。
そうすることで自分の鏡もより綺麗になるし、相手もそこに映った自分を見て、
それまで見えてなかった自分の汚れに気がつくかもしれない。
最初は不満に思っていたことでも、大抵のことは磨いている内に解消しているものだ。
そして自分が何をすべきなのかが自然と見えてくる。そしたら後は行動するだけだ。

自分が変われば相手も変わる。相手が変われば自分も変わる。皆が変われば世間も変わる。
良い縁の連鎖のきっかけを生み出すのは、いつだって自分自身の誠の姿勢と一歩の勇気だ。
逆に言えば、悪い縁の連鎖のきっかけを生み出すのもいつだって自分自身なのだ。

この世の全ての問題を己の心で受け止め、乗り越え、解決していく。
なぜなら「この世」とは、自分の心の鏡に映った世であるからだ。
即ち、「世界を変えるとは自分を変えること」である。
その責任を他人や世間のせいにして逃げてはいけない。
その責任転換、責任放棄の逃げの姿勢こそが全ての悪の根源である。
その悪い縁の連鎖を断ち切るのは自分自身でしかない。決して飲み込まれてはいけない。

他人を馬鹿にする人は他人からも馬鹿にされている。
他人を尊敬する人は他人からも尊敬されている。
器のでかい人と接すると自分のちっぽけさを痛感するのは、
綺麗な鏡の前に立つと自分の鏡の汚れがよく見えるからだ。
その汚れとどう向き合うのかが自分磨き、即ち心の鏡を磨く作業だ。

汚れた鏡同士で映し合っていれば、自分の汚れを見なくて済む。
しかし、その汚れと向き合わずに見て見ぬ振りをしたり、
自分より汚れた鏡を探しては「お前の鏡は汚れている」と優越感に浸ったり、争い合っても何も解決しない。
どんなに目を背けても、綺麗な鏡の前ではその汚れを誤魔化すことはできない。
自分に嘘をつくことはできない。大切なのは逃げずに向き合うこと。

自分の汚れを映し出す綺麗な鏡に出会ったなら、その汚れと向き合い、磨いて綺麗にする。
しかし、汚れがなくなったからと言って、決して満足してはいけない。
もっと綺麗な鏡の前に立つと、今まで見えなかった汚れが見えてくるだろう。
そんな綺麗な鏡を求めて、求道心を持って良き縁を結び、己の心の鏡を磨くべく日々精進する。

そうやってどこまでも綺麗な鏡と向き合い、自分の鏡と向き合い、磨いていく。
合わせ鏡のように、鏡と鏡を合わせたその間に、その先に何が見えるのか。
それは鏡を綺麗に磨けば磨くほどより鮮明に、より奥深くまで見えてくる。
己の心の中をどこまでも深く覗き込み、どこまでも綺麗に磨き続ける。
自分磨きとは、そういうことだ。


  • 法介
  • URL
  • 2016/10/27 (Thu) 05:21:12
 
「一念三千論」-⑤  法介
[53] 「一念三千論」-⑤
 投稿者: 法介 投稿日:2016年10月20日(木)20時54分58秒 p1139105-ipngn200808fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp 通報 返信・引用 編集済
|
「一念三千論」-② で、
六識層の「感覚と意識」とで分別が生じているという話をしましたが、
実はこの六識層の分別によって我々は世界を認識できているのです。

生まれつき目が不自由な人にとっての世界と
目がちゃんと見える人にとっての世界が
明らかに異なる世界であることはお分かり頂けると思います。

クーラーのきいた部屋に暑がりの人と寒がりの人が一緒に入っている場合、
暑がりの人にとっては快適な空間であっても
寒がりの人にとっては不快な空間として認識されます。

感覚器官である五感とその五感がキャッチした情報を統合して意識として司る意識層までが六識層です。

人間にとっての世界とは、この六識層によって立ち上がっている世界なのです。
人が脳死状態に陥ると、この六識層の機能が完全に停止します。
そうすると、今まで立ち上がっていた世界が立ち上がらなくなるので世界は消滅します。

天台の瞑想や小乗仏教の瞑想修行が目指すところがこの六識層の滅尽(めつじん)で、
正確な言葉でいえば六根六境を滅尽させた「世界の終わり」現法涅槃の境地を目指しています。
世界を立ち上げずありのままの「ただ現象のみ」の境地を築くわけです。
そうして六識層の意識を滅尽させて
その下に眠る意識層にアプローチしてはじめて仏果を取り出せる大変な修行だったのです。

大変な修行なので成仏に辿り着けたのは一部の僧侶だけだったでしょう。
なぜそこまで大変な修行をしないと成仏出来なかったのか。

それはお釈迦様がご本尊様を顕さなかったからです。

末法の衆生である我々は、ご本尊様があるから出家してそんな大変な修行を積まなくても
勤行・唱題・折伏行を一生懸命やっていけば成仏出来ます。
(意識層を探らなくても目の前に仏縁がありますので)

では、なぜお釈迦様はご本尊様を顕さなかったのでしょうか。

確かにお釈迦様は成仏した仏様でした。
しかし、修行によって成仏したとご自分で言われていますよね。
遠い過去に於いてご本尊様の元で修行を積んで成仏したということです。

その成仏した姿(仏の姿)を民衆に示すことは出来ても
ご本尊様を顕すことは出来なかったのです。
なぜなら、そのご本尊様はお釈迦様のお師匠様(本仏)である御方しか顕すことが出来ないからです。

お釈迦様はご自分で出来る範囲のことは全てやりきったのです。
しかし、ご本尊様だけは自分で顕すことが出来なかった。

その限界を分かっていたから「白法隠没」という言葉を残されたんだと思います。

ご本尊様を顕すことが出来ないから、
自分(仏)と直接「縁」した人しか成仏に導けなかったのです。
釈迦と縁した人々は、
正法・像法という長い間生まれ変わりを繰り返す中で、
過去世での釈迦との縁(仏縁)を自身の深い意識層から感じ取ってやっと成仏出来たのです。

おそらくそうやって成仏出来たのは、ごくわずかな人達でしょう。
(おそらくご本尊様に書かれている人たち)

その釈迦の仏法と末法の大聖人様の仏法とを比較した時、
明らかに大聖人様の仏法の方が、
確実に多くの衆生を成仏へと導けますので
種脱相対という勝劣を大聖人様が定義付けられているのです。

そして、大聖人様がご本尊様を御図顕されました。

 「日蓮がたましひを、墨にそめながして書きて候ぞ、信じさせ給へ。
   仏の御心は法華経なり。
   日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし。」
                     (経王殿御返事)

釈迦がたましいとは書かれていません。
大聖人様ご自身の魂を曼荼羅ご本尊とし顕されています。

「信じさせ給へ」と言われていますので
素直にそう信じてお題目を唱えるだけです。

私にとってはそれ以上の理由(大聖人様が御本仏という)は必要ありません。




  • 法介
  • URL
  • 2016/10/27 (Thu) 05:23:03
 
御本尊は釈迦仏より授けられた   愚人
[54] 御本尊は釈迦仏より授けられた
 投稿者: 愚人 投稿日:2016年10月21日(金)03時00分25秒 softbank126074078152.bbtec.net 通報 返信・引用 編集済
 法介氏。お子様のブログ、中々のものです。日蓮聖人は、業因業果を説きますから、現在の果報は自らの業因によるものであり、他人ではなく自らの責任になります。

 依正不二からいっても、回りの環境の状態を作ったのは正報である自分であるから世間を恨むのも間違いとなります。

 善悪・邪正・男女・僧俗・能所・親子・情非情と私たちは分別の中で暮らしていますが、全て妙法蓮華経であるから無分別となります。しかし、そこにやはり分別は分別として互いに支え合うことも大切でありましょう。分別・無分別の一辺に偏ることなく中道が大切であると愚人は考えます。

 さて、法介氏の御本尊を顕したのは日蓮聖人なので日蓮聖人が本仏であるとの御意見ですが、愚人は違う意見を持っています。愚人の意見は、

 日蓮聖人が『新尼御前御返事』に、

 今此の御本尊は教主釈尊五百塵点劫より心中にをさめさせ給ひて、世に出現して四十余年(中略)我五百塵点劫より大地の底にかくしをきたる真の弟子あり、之にゆづるべしとて、上行菩薩等を涌出品に召し出ださせ給ひて、法華経の本門の肝心たる妙法蓮華経の五字をゆづらせ給ひて(平成新編御書七六四頁)

と書いているように、日蓮聖人が図顕した御本尊は釈迦仏が五百塵点劫より心中に隠し持っていたものであり、釈迦仏からの附嘱があってこそ書き顕す事が出来たのです。日蓮聖人が御自分で証言なされているように御本尊は釈迦仏の所有であり日蓮聖人は釈迦仏の所有を譲られたにすぎません。よって愚人は、御本尊を顕したのは日蓮聖人だから日蓮聖人が本仏であるとする法介氏の御意見には賛同しかねます。

 また愚人は『経王抄』の

 日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし

との文は、『南条殿御返事』に、

 教主釈尊の一大事の秘法を霊鷲山にして相伝し、日蓮が肉団の胸中に秘して隠し持もてり(平成新編御書一五六九頁)

 また『新尼抄』に、

 心中にをさめさせ給ひて、

とあるように、霊鷲山にて釈迦仏から南無妙法蓮華経の五字を譲られ「胸中の肉団に秘して隠し持も」っているうえからの、「心中にをさめ」ているうえからの表現であると思っています。

 また、「仏の御意は法華経なり」との対比ですが、愚人は、この対比を「熟脱は仏」「下種は菩薩」との対比であるとみています。

 『南条抄』『新尼抄』に明らかなように、下種の南無妙法蓮華経は仏からの相伝であると愚人は考えます。


[55] さすがわ愚人さん
 投稿者: 法介 投稿日:2016年10月21日(金)07時12分57秒 p1139105-ipngn200808fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp 通報 返信・引用 編集済
|
さすがわ愚人さんですね。

突っ込んでくる内容が鋭い^^

その返答に対する返答を用意しますのでしばらく待って頂きたい。

待っていただく間に、一つ調べて頂きたいことがあります。

愚人さんの主張の根拠にもなるかと思いますので。

お釈迦様がご自身で自分の事を「本仏」と言われた記録が存在するのかということです。
私の記憶では、過去で修行して仏になったと言われてはいるけども、
「本仏」を名乗った記憶は無いものですから。
そういった文献でも出てきましたら私の考えもまた変わってきますので。


[57] 釈迦の本仏たる自覚文
 投稿者: 愚人 投稿日:2016年10月21日(金)09時42分38秒 om126161055231.8.openmobile.ne.jp 通報 返信・引用 編集済
 日蓮宗現代宗教研究所の文献集からの引用です。

 我成仏してより已来、復此れに過ぎたること百千万億那由他阿僧祇劫なり。是れより来、我常に此の娑婆世界に在って説法教化す。亦余処の百千万億那由他阿僧祇の国に於ても衆生を導利す。諸の善男子、是の中間に於て我燃燈仏等と説き、又復其れ涅槃に入ると言いき。是の如きは皆方便を以て分別せしなり。諸の善男子、若し衆生あって我が所に来至するには、我仏眼を以て其の信等の諸根の利鈍を観じて、度すべき所に随って、処処に自ら名字の不同・年紀の大小を説き、亦復現じて当に涅槃に入るべしと言い、又種々の方便を以て微妙の法を説いて、能く衆生をして歓喜の心を発さしめき。
 諸の善男子、如来諸の衆生の小法を楽える徳薄垢重の者を見ては、是の人の為に我少くして出家し阿耨多羅三藐三菩提を得たりと説く。然るに我実に成仏してより已来久遠なること斯の若し。但方便を以て衆生を教化して、仏道に入らしめんとして是の如き説を作す。諸の善男子、如来の演ぶる所の経典は、皆衆生を度脱せんが為なり。或は己身を説き、或は他身を説き、或は己身を示し、或は他身を示し、或は己事を示し、或は他事を示す。諸の言説するところは皆実にして虚しからず。所以は何ん、如来は如実に三界の相を知見す。生死の若しは退、若しは出あることなく、亦在世及び滅度の者なし。実に非ず、虚に非ず、如に非ず、異に非ず、三界の三界を見るが如くならず。斯の如きの事、如来明かに見て錯謬あることなし。


 □処処に自ら名字の不同・年紀の大小を説き、亦復現じて当に涅槃に入るべしと言い、

 ■要するに、「何々仏は釈迦仏は事である」との事です。

 □如来の演ぶる所の経典は、皆衆生を度脱せんが為なり。或は己身を説き、或は他身を説き、或は己身を示し、或は他身を示し、或は己事を示し、或は他事を示す。

 ■要するに「経々に説かれた仏菩薩等々は釈迦仏である」との事です。

 つまり何々仏は、釈迦仏の分身である事を教示しているわけで、要するに釈迦仏が本仏であると教示しているのです。


 参考文献として日蓮聖人の遺文『日眼女釈迦仏供養事』を読んでみて下さい。


[59] いま一つ質問④
 投稿者: 法介 投稿日:2016年10月21日(金)14時44分48秒 p1139105-ipngn200808fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp 通報 返信・引用 編集済
|
妙介さん、了解しました。

愚人さんへ

返答するにあたって愚人さんの主張に対していま一つ質問しておきたいのですが、

質問④
お釈迦様が本仏だとして、では何故にご自分が末法に再出現(願兼於業で)して、
自らが御本尊を顕さず、あえて上行菩薩に附嘱したのでしょうか?
愚人さんのお考えをお聞かせください。


[60] 曼荼羅御本尊様は、虚空絵の儀式
 投稿者: 法介 投稿日:2016年10月21日(金)17時46分1秒 p1139105-ipngn200808fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp 通報 返信・引用
|
あともう1つ愚人さんにお願いしたいことがあります。

曼荼羅御本尊様は、虚空絵の儀式を顕されたものという話がありますよよ。

その話の出所ってご存知でしたらご教授お願いします。


[61] 虚空会の儀式
 投稿者: 愚人 投稿日:2016年10月21日(金)18時59分34秒 om126161055231.8.openmobile.ne.jp 通報 返信・引用
 『観心本尊抄』
  但地涌千界を召して八品を説いて之を付嘱したまふ。其の本尊の為体、本師の娑婆の上に宝塔空に居し、塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏・・・(大石寺内事部発行 第五十二世 日霑上人編 『祖文簒要九六頁』)

 『日女御前御返事』

 抑此の御本尊は在世五十年の中には八年、八年の間にも涌出品より嘱累品まで八品に顕はれ給ふなり。(祖文簒要一〇一頁)


 ■此の二文からでも御本尊が虚空会の儀式を模したものである事が解ると思います。


[62] 菩薩下種の理由
 投稿者: 愚人 投稿日:2016年10月21日(金)19時34分18秒 om126161055231.8.openmobile.ne.jp 通報 返信・引用 編集済
 『呵責謗法滅罪抄』

 日蓮は彼の不軽菩薩に似たり。(中略)上下異なれども一因なれば無間におつ。日蓮と不軽菩薩とは、位の上下はあれども同業なれば、彼の不軽菩薩成仏し給はゞ日蓮が仏果疑ふべきや。(平成新編御書七一五頁)

 『教行証御書』

 威音王仏の像法に大乗を知る者一人も無かりしに、不軽菩薩出現して教主説き置き給ひし二十四字を一切衆生に向かって唱へしめしがごとし。彼の二十四字を聞きし者は一人も無く亦不軽大士に値って益を得たり。是則ち前の聞法を下種とせし故なり。今も亦是くの如し。彼は像法、此は濁あくの末法。彼は初随喜の行者、此は名字の凡夫。彼は二十四字の下種、此は唯五字なり。得道の時節異なりと雖も成仏の所詮は全体是同じかるべし。(平成新編御書一一〇四頁)

 『佐渡御書』

 当世の王臣なくば、日蓮が過去謗法の重罪消し難し。日蓮は過去の不軽の如く、当世の人々は彼の軽毀の四衆の如し。人は替はれども因は是一なり。(中略)いかなれば、不軽の因を行じて日蓮一人釈迦仏とならざるべき。(平成新編御書五八二・五八三頁)


 ■これ等の文に明らかなように日蓮聖人は、本未有善の衆生に下種折伏をし難に遭い仏果を成じた不軽菩薩を自身に準えています。龍ノ口での宗教体験で得た自覚は自身が不軽菩薩であることです。しかし経文では不軽菩薩は娑婆世界の末法に出現はしません。娑婆世界の末法に出現するのは地涌菩薩です。そこで日蓮聖人は自身を不軽菩薩に準えつつも、経文に順じて自身を上行菩薩の再誕としたのであると推します。

 日蓮聖人にとっては、下種するのは菩薩でなくてはならないのです。

  • 法介
  • URL
  • 2016/10/27 (Thu) 05:26:37
 
愚人さんへの返答  法介
[63] 愚人さんへの返答-その1
 投稿者: 法介 投稿日:2016年10月21日(金)21時20分30秒 p1139105-ipngn200808fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp 通報 返信・引用 編集済
|
まず「日眼女造立釈迦仏供養事」ですが、一通り目を通しました。

その中で、

   教主釈尊一体三寸の木像

   八幡大菩薩も其の本地は教主釈尊なり

   教主釈尊をつくりまいらせ給い候へば

「教主釈尊」という言葉を大聖人様は3箇所使われております。
これについてまず私の考えを述べさせて頂きます。

「一念三千論」でお話しましたが、一念三千にも色んな一念三千があると言いました。

①修行者の心の動きを無分別法でとらえた一念三千(非有非無---有でもなく無でもない)。
②修行者を取り巻く世界を客観認識(分別法)でとらえた一念三千(亦有亦無---有でもあり無でもある)。

相手を一念三千で見ていく分別法としての一念三千②の場合のお話をさせてください。

私は学会員さんとお話をする時、心がけていることが一つあります。
それは決して池田さんの事を呼び捨てにしないことです。
出来るだけ池田先生と呼ぶように心がけています。

それは、どうしてかと言いますと
相手の学会員さんを一念三千でとらえているからです。

どういうことかというと、
相手の人が今日までどういう環境で生きてこられたのか
どういう想いを抱いて今日まで頑張ってこられたのか
どういう人達とかかわって今のその方が存在しているのか
相手をとりまく衆生世間・国土世間・五陰世間を想像することからはじめます。

そしたら、相手の方が学会員でしかもそれなりに組織の中で頑張って信心を貫かれてこられた方であるならば、
その方にとって池田先生がどういう存在であるかは、痛いほどわかります。

その方に向かって池田先生のことを呼び捨てにする行為が、
どれだけ相手の感情をさかなでる行為であるか
十分に理解しているからこそ、
私も池田先生と呼んでお話をさせて頂きます。

相手に冷静な状態で正しい判断をしてもらいたいと思うからこそ、そうするのです。

大聖人様も「日眼女造立釈迦仏供養事」の日眼女に対して、
釈迦仏像を造立して供養した彼女の心をくみ取って
頭ごなしに「それは謗法ですよ!」と言われるのではなく
教主である釈尊の像を造立して供養するという信仰心の素晴らしさを
日眼女に伝えるためにあえてそのような言い方をなされているのだと思います。

ただでさえ夫が病気で気がめいっている状態の日眼女を
彼女の信仰心をほめたたえて激励されたのでしょう。

そういう見解もありますのでこの御抄をもって「釈迦本仏論」の根拠とすることは如何なものかと思います。

つづく


[64] 愚人さんへの返答-その2
 投稿者: 法介 投稿日:2016年10月21日(金)22時16分27秒 p1139105-ipngn200808fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp 通報 返信・引用 編集済
|
次に、

>[57] 釈迦の本仏たる自覚文

について、

>つまり何々仏は、釈迦仏の分身である事を教示しているわけで、要するに釈迦仏が本仏であると教示しているのです

お釈迦さま自身が自分の事を「本仏」と言われている訳ではなく、教示している訳で、
そのように解釈できるといった程度の根拠と考えます。

それに対して大聖人様は以下のように明確に御自分で言われております。

「日蓮がたましひを、墨にそめながして書きて候ぞ、信じさせ給へ。
   仏の御心は法華経なり。
   日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし。」
 (経王殿御返事)

「我等が内証の寿量品とは脱益寿量の文底の本因妙の事なり、其の教主は某なり」
 (百六箇抄)

「本因妙の教主本門の大師日蓮謹んで之を結要す」
(百六箇抄)

「久遠名字より已来た本因本果の主・本地自受用報身の垂迹上行菩薩の再誕・本門の大師日蓮詮要す。」
(百六箇抄)

「仏は熟脱の教主 某は下種の法主なり」
(本因妙抄)

「教主釈尊より大事なる行者」
(下山御消息)

つづく (次はちょっと厄介だ)


[65] 伝教大師『願文』
 投稿者: 愚人 投稿日:2016年10月22日(土)04時26分48秒 softbank126074079022.bbtec.net 通報 返信・引用 編集済
 □仙丸未だ服せず、遊魂留め難し。命通未だ得ず、死辰何(いつ)とか定めん。生ける時、善を作さずんば、死する日、獄の薪と成らん。

 【解説】(前略)いつ消えるかわからない、はかない命であるからこそ、今生きていることに感謝し、各人が可能な善行に取り組むことを求めているのです。(『伝教大師の生涯と教え』157・159頁)

 ■日蓮聖人は、

 未来永々の楽しみはかつがつ心を養ふとも、しいてあながちに電光朝露の名利をば貪るべからす。(平成新編御書三〇〇頁『持妙法華問答抄』)

と言っていますね。善行を作すのは難しく、名利を貪るのは容易い今日この頃な愚人です。

 □ここにおいて、愚が中の極愚、狂(おう)が中の極狂、塵禿(じんとく)の有情、底下の最澄、上は諸仏に違し、中(なかごろ)は皇法(おうぼう)に背き、下(しも)は孝礼を闕(か)けり。

 【解説】青年僧であった伝教大師の厳しい自己内省が読み取れる一文です。(中略)こうした劣った存在である、最低な自分であるという自覚が、実は伝教大師の仏教観の基点となっていると思います。
 (中略)
 伝教大師は、自分自身のそれまでの行動を省みて、仏教においては教学も修行も不十分であり、世間にあっては法律や孝礼も守れていない存在であると、自らを位置付けました。
 そしてこうした劣った存在であるが故に、仏教に向き合うのです。劣った自分のような存在がどのような教えによって、どのような修行したら、悟りへ向かうことができるのか。また自分と同じように苦しむ人々をどのようにしたら教え導いていくことができるのか。それを問いながら比叡山の修行に入りました。
 自分自身を深く見つめることは容易なことではありません。自分のこととなると、つい甘くなったり言い訳をしてしまいがちです。しかし、因果の道理を知り、今ある自分の尊厳に気づくならば、大師の真摯な内省を思い、自らの行動を正直に見つめ直すことが必要なのではないでしょうか。(発売 大正大学出版会 発行者 柏木正博 編者 天台宗教学振興委員会/天台学研究室 代表 多田孝正 『伝教大師の生涯と教え』161~163頁)

 ■愚人にとって耳の痛い言葉です。ちなみに日蓮聖人の出家の動機は、

 幼少の時より学文に心をかけし上、大虚空蔵菩薩の御宝前に願を立て、日本第一の智者となし給へ。十二のとしより此の願を立つ。(平成新編御書一〇七七頁『破良観等御書』)

といったものでしたね。愚人は、智者ではなく正しく愚者となってしまいました。

 (続く)



[66] 愚人さんへの返答-その3
 投稿者: 法介 投稿日:2016年10月22日(土)05時15分48秒 p1139105-ipngn200808fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp 通報 返信・引用
|
そして最後に愚人さんが一番こだわっておられる地涌の菩薩説。

これは私的には端的にしかも明らかに答えが出ているのですが、
それも結局のところ一念三千をどこまで正しく理解出来ているかに寄るものですから、
「一念三千論」と題してお話をしてきた次第です。

事の一念三千と理の一念三千の違いだと思います。

例えていうなら、
ピカソの絵はピカソにしか画くことが出来ないということです。

私がもし私の一念三千を語るならば、
私がどこで(土地柄)生まれ、
どのような両親のもとで育ち(かかわって来た人々)、
そしてそれによってどういった感性(五陰)を育んできたか、
そういった自身がこれまでに体験してきた人生を延々と語りだすでしょう。

それが私という当体なのですから。

学会や宗門のいう一念三千は、客観的視点からとらえた一念三千です。
しかし、今私が話した私の一念三千は、
私を視点とした私の主観としての一念三千です。
(これは分別・無分別で言えば主観なので無分別っぽいけど
 よくよく考えてみれば分別による一念三千の部類だとわかると思います。)

愚人さんの一念三千は愚人さんにしか語ることが出来ないということがお分かり頂けたら、
仏の一念三千は、仏にしか顕すことは出来ないという道理がご理解頂けるかと思います。

菩薩が顕す一念三千は所詮、菩薩の一念三千でしかないのです。

事の一念三千とは、そういうことだと私は思います。

ではお釈迦様は何故、その菩薩である地涌の菩薩に虚空絵に於いて法を付属されたのか。

つづく




[67] 愚人さんへの返答-その4
 投稿者: 法介 投稿日:2016年10月22日(土)06時43分39秒 p1139105-ipngn200808fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp 通報 返信・引用 編集済
|
今回の件で調べていましたら、大日蓮の28.10号の中で日如猊下が、

お釈迦様は五百塵点劫の昔に修行を積んで成仏した旨は明かされました。
しかしその成仏した因となった当体の話は「我本菩薩の道を行じて云云」(法華経433ページ)としか説かれていないのです。

といった趣旨のお話をされています。


久遠五百塵点劫の仏果を成じたという記憶をとりもどすだけでも十分凄いお話なんですけれども
さすがにその先の仏因がなんだったのかまでは、
お釈迦様といえども掴みきれていなかったから明かされていないんだと私は思います。

で、「虚空絵の儀式」ですが、
それまでに見たこともない姿の地涌の菩薩が突如姿をあらわすのですが、その時の様子は「開目抄」の中で詳しく描かれています。

[本文]
其の上に地涌千界の大菩薩・大地より出来せり 釈尊に第一の御弟子とをぼしき普賢文殊等にも・にるべくもなし、華厳・方等・般若・法華経の宝塔品に来集する大菩薩・大日経等の金剛薩タ等の十六の大菩薩なんども此の菩薩に対当すればミ猴の群る中に帝釈の来り給うが如し、 山人に月卿等のまじはるにことならず、 補処の弥勒すら猶迷惑せり何に況や其の已下をや、此の千世界の大菩薩の中に四人の大聖まします所謂・上行・無辺行・浄行・安立行なり、此の四人は虚空・霊山の諸菩薩等・眼もあはせ心もをよばず、華厳経の四菩薩・大日経の四菩薩・金剛頂経の十六大菩薩等も此の菩薩に対すれば翳眼のものの日輪を見るが如く 海人が皇帝に向い奉るが如し、 大公等の四聖の衆中にありしに・にたり商山の四皓が恵帝に仕えしにことならず、 巍巍堂堂として尊高なり、釈迦・多宝・十方の分身を除いては一切衆生の善知識ともたのみ奉りぬべし、 弥勒菩薩・心に念言すらく、我は仏の太子の御時より三十成道・今の霊山まで四十二年が間此の界の菩薩・十方世界より来集せし諸大菩薩皆しりたり、 又十方の浄穢土に或は御使い或は我と遊戯して其の国国に大菩薩を見聞せり、 此の大菩薩の御師なんどは・いかなる仏にてや・あるらん、 よも此の釈迦・多宝・十方の分身の仏陀にはにるべくもなき仏にてこそ・をはすらめ、雨の猛を見て竜の大なる事をしり華の大なるを見て池のふかきことは・しんぬべし、 此等の大菩薩の来る国・又誰と申す仏にあいたてまつり・いかなる大法をか習修し給うらんと疑いし、 あまりの不審さに音をも・いだすべくも・なけれども仏力にやありけん、 弥勒菩薩疑つて云く「無量千万億の大衆の諸の菩薩は 昔より未だ曾て見ざる所なり是の諸の大威徳の精進の菩薩衆は 誰か其の為に法を説いて教化して成就せる、 誰に従つてか初めて発心し何れの仏法をか称揚せる、 世尊我昔より来未だ曾つて是の事を見ず、 願くは其の所従の国土の名号を説きたまえ、 我常に諸国に遊べども未だ曾つて是の事を見ず、 我れ此の衆の中に於て乃し一人をも識らず 忽然に地より出でたり願くは其の因縁を説きたまえ」等云云、 天台云く「寂場より已降 今座已往十方の大士来会絶えず 限る可からずと雖も我補処の智力を以つて悉く見悉く知る、 而れども此の衆に於て一人をも識らず然るに 我れ十方に遊戯して諸仏に覲奉し大衆に快く識知せらる」等云云、 妙楽云く「智人は起を知る蛇は自ら蛇を識る」等云云、 経釈の心・分明なり詮ずるところは初成道よりこのかた此の土十方にて此等の菩薩を見たてまつらず・きかずと申すなり。


[現代語訳]
 その上に地涌千界の大菩薩が大地より出来した。釈尊にとっては、第一の御弟子と思われる普賢菩薩・文殊師利菩薩等すら比較にならない偉大さである。華厳・方等・般若・法華経の宝塔品に来集した大菩薩や大日経等の金剛薩埵等の十六人の大菩薩や大日経等の大菩薩なども、この地涌の菩薩に比べると、猿のむらがっている中に帝釈天が来たようなものである。あたかも山奥の賤民の中に月卿等の貴人がまじわっているのと同様であった。釈迦仏のあとを嗣ぐといわれた弥勒ですら、なお地涌の出現に惑われた。しかしてそれ以下の者の驚きと当惑は非情なものであった。この千世界の大菩薩の中に四人の大聖がましました。いわゆる上行・無辺行・浄行・安立行であらせられる。
 この四人は虚空会および霊山会に来集している諸菩薩等が、眼をあわせることも心のおよぶこともなかった。華厳経の四菩薩・大日経の四菩薩・金剛頂経の十六大菩薩等も、この菩薩に対すれば翳眼のものが太陽をまともに見られないごとく、いやしい海人が皇帝に向い奉るような状態であった。大公望等の四聖が大衆の中にいるごとく、商山の四皓が君子や恵帝に仕えたのと異ならない。じつにぎぎ堂々として尊貴であった。釈迦・多宝・十方の分身の諸仏をのぞいては、一切衆生の善知識とたのみ奉るべきであろう。
 そこで弥勒菩薩は心の中ではつぎのように思っていた。自分は釈迦仏が出家する以前の太子であった時から、三十歳で成道し、いまの霊鷲山で法華経の説法がひらかれるまでの四十二年のあいだ、この世界の菩薩も十方世界より来集した菩薩もみなことごとく知っている。またその上に十方の浄土へも穢土へも、あるいはお使いとしてあるいはみずから遊びに行って、その国々の大菩薩も見聞し知っている。しかしこの地涌の大菩薩のお師匠はどのような仏さまであろうか。よもこの釈迦・多宝・十方の分身の諸仏には似るべくもない仏さまであらせられるであろう。雨の猛烈に振るのを見て竜の大なることを知り、華の盛んなるを見てこれを育てている池のふかいことは知られるであろう。これらの大菩薩はいかなる国から来て、またいかなる仏にあい奉り、いかなる大法をか習修し給うているのかと疑っていた。あまりのふしぎさに声を出すことすらできなかったけれども、仏力の加護によるのであろう、と次のように質問した。
 すなわち弥勒菩薩は疑っていわく「無量千万億の大衆の諸の菩薩は、昔よりいまだかって見たことのないところである。もろもろの大威徳・大精進の菩薩衆に対して、だれがそのために法を説いて教化して仏道を成就せしめたのか。誰にしたがって初めて発心し、いずれの仏法をか称揚して、修行を積んできたのか。世尊よ、われは昔よりこのかたいまだかってこのことを見たことがない。願わくば、その住する国土の名を説き聞かせてください。自分は常に諸国に遊んできたが、いまだかってこの事を見たことがない。自分はこの地涌の大衆を見てひとりも知っているひとはいない。忽然として大地より涌出せられた。願わくばその因縁を説いてください」と。
 天台云いわく「寂滅道場における最初の説法より以来、法華経の座にいたるまで十方の大菩薩が絶えず来会してその数は限りないとはいえ、自分は補処の智力をもってことごとく見、ことごとく知っている。しかれどもこの衆においてはひとりも知らず。しかるに自分は十方に遊戯して諸仏にまのあたりに奉仕し、大衆によく識知せられているのである」と。妙楽はさらにこれを釈していわく「智人は将来起こるべきことを知るが愚人は知らない。蛇の道は蛇で、蛇はみずから蛇を知っている」と、このように経文の解釈するところの意味は文明である。要するに初成道より法華の会座にいたるまで、この国土においてもまた十方国土においても、これらの大菩薩を見たてまつらず、また聞いたこともないというのである。

[本文]
仏此の疑を答えて云く「阿逸多・汝等昔より未だ見ざる所の者は 我是の娑婆世界に於て阿耨多羅三藐三菩提を得已つて是の諸の菩薩を教化し 示導して其の心を調伏して道の意を発こさしめたり」等、 又云く「我伽耶城菩提樹下に於て坐して最正覚を成ずることを得て 無上の法輪を転じ爾して乃ち之を教化して 初めて道心を発さしむ今皆不退に住せり、 乃至我久遠より来是等の衆を教化せり」等云云、 此に弥勒等の大菩薩大に疑いをもう、 華厳経の時・法慧等の無量の大菩薩あつまる いかなる人人なるらんと・をもへば我が善知識なりとをほせられしかば、さもやと・うちをもひき、其の後の大宝坊・白鷺池等の来会の大菩薩も・しかのごとし、 此の大菩薩は彼等にはにるべくもなき・ふりたりげにまします定めて釈尊の御師匠かなんどおぼしきを 令初発道心とて幼稚のものども・なりしを教化して弟子となせりなんど・をほせあれば・大なる疑なるべし、 日本の聖徳太子は人王第三十二代・用明天皇の御子なり、御年六歳の時・百済・高麗・唐土より老人どものわたりたりしを六歳の太子・我が弟子なりと・をほせありしかば彼の老人ども 又合掌して我が師なり等云云、 不思議なりし事なり、外典に申す或者道をゆけば路のほとりに年三十計りなる・わかものが八十計りなる老人を・とらへて打ちけり、 いかなる事ぞと・とえば此の老翁は我が子なりなんど申すと・かたるにもにたり、 されば弥勒菩薩等疑つて云く「世尊・如来太子為りし時・釈の宮を出で伽耶城を去ること遠からずして 道場に坐して阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得給えり、 是より已来始めて四十余年を過ぎたり、 世尊・云何ぞ此の少時に於て 大いに仏事を作し給える」等云云、 一切の菩薩始め華厳経より四十余年・会会に疑をまうけて一切衆生の疑網をはらす中に此の疑・第一の疑なるべし、 無量義経の大荘厳等の八万の大士・四十余年と 今との歴劫・疾成の疑にも超過せり、 観無量寿経に韋提希夫人の 阿闍世王が提婆にすかされて 父の王をいましめ母を殺さんとせしが 耆婆月光に・をどされて母をはなちたりし時仏を請じたてまつて・まづ第一の問に云く「我れ宿し何の罪あつて 此の悪子を生む世尊・復た何等の因縁有つて提婆達多と共に眷属となり給う」等云云、 此の疑の中に「世尊復た何等の因縁有つて」等の疑は大なる大事なり、 輪王は敵と共に生れず帝釈は鬼と・ともならず 仏は無量劫の慈悲者なりいかに大怨と共にはまします還つて仏には・ましまさざるかと疑うなるべし、而れども仏答え給はず、されば観経を読誦せん人・法華経の提婆品へ入らずば・ いたづらごとなるべし、 大涅槃経に迦葉菩薩の三十六の問もこれには及ばず、 されば仏・此の疑を晴させ給はずば一代の聖教は泡沫にどうじ一切衆生は疑網にかかるべし、寿量の一品の大切なるこれなり。

[現代語訳]
 仏は弥勒菩薩の質問に答えていわく「阿逸多よ。なんじが昔よりいまだ見たことのないというこれらの大菩薩たちは、自分がこの娑婆世界において成仏してよりこのかたもろもろの菩薩を教化し、指導して、その心を調伏して大道心をおこさしめたのである」と。またいわく「われは伽耶城の菩提樹の下に坐して、最正覚を成ずることを得、しかして無上の法輪を転じ、これらの大菩薩を教化して、初めて道心をおこさしめ、いまはみな不退の位に住している。乃至自分は久遠よりこのかたこれらの衆を教化した」と涌出品に説き明かしている。これはすなわち略開近顕遠である。ここにおいて弥勒等の大菩薩はおおいに疑いを持った。華厳経の時には法慧等の無量の大菩薩が集まった。いかなる人々かと思われた時に、仏はわが善知識であるとおおせられたから「そうかもしれない」と思っていた。その後大集経の説いた大宝坊や、大品般若経を説いた白鷺池等に集まってきた大菩薩もまた仏の善知識であるように思われた。この地涌の菩薩たちはかれらには似もつかぬ古くて尊げに見える。さだめて釈尊のご師匠か、などと思われるのに「初めて道心をおこさしめた」と説いて、かっては幼稚のものであったのを、教化して弟子としたなどとおおせられたことは、大いなる疑いである。日本の聖徳太子は人王第三十二代用明天皇の御子である。御年六歳の時、朝鮮半島や中国大陸からわたってきた学問技芸等を伝来してきた老人たちを指して、「わが弟子なり」とおおせられたので、かの老人たちは六歳の太子に合掌して「我が師であらせられる」といったというが、実にふしぎなことである。外典ににはまたつぎのような話がある。ある人が道を行くと三十歳ばかりの若者が八十歳ばかりの老人をとらえて打っていた。どうしたのかと問えば「この老人はわが子である」と青年が答えたという話にも似ている。されば弥勒菩薩等は疑っていわく「世尊よ、如来は太子であらせられた時、釈の宮を出で、伽耶城を去ること遠からずして、道場に坐して悟りを開かれたのである。それよりこのかた始めて四十余年を過ぎたのであるが、世尊よ、いったいどうしてこの少ない期間にこのような偉大な菩薩大衆を化導しておおいなる仏事をなしとげられたのか」と。一切の菩薩を始め、華厳経より四十余年、それぞれの時々に疑いを設けて一切衆生の疑いを晴らせてきた中に、この疑いこそもっとも第一の疑いである。無量義経において大荘厳菩薩等が四十余年の爾前経は歴劫修行であり、無量義経にいたって始めて速疾成仏道を説かれて生じた疑にもまさる大疑である。観無量寿経において韋提希夫人が子息の阿闍世王に殺されようとし、しかも夫人の夫で阿闍世の父たる頻婆沙羅王が幽閉されて殺されたのは阿闍世が提婆達多を師としたからである。阿闍世は韋提希夫人をも殺そうとしたが耆婆と月光の二人の大臣に諌められて、これを放ったが、この時に夫人は釈尊に会ってまず第一の質問に「自分の過去世になんの罪業があって、このような悪子を生んだのか。世尊はまたなんの因縁があって提婆達多のごとき悪人と従兄弟の間柄に生まれてきたのか」と、この疑の中に「世尊はまたなんの因縁があって」等の疑いいは大なる大事である。転輪聖王は敵とともに生まれず、帝釈は鬼とともにいないといわれているが、仏は無量劫以来の大慈悲者であらせられるのになにゆえ大悪逆の達多とともにいるのか、かえって仏ではないのであろうかと疑ったのである。しかれどもその時に仏は答えなかった。されば観経を読誦する人は、法華経の提婆品に来て初めて説き明かされる因縁を聞かなければなんにもならないのである。大涅槃経に迦葉菩薩が三十六の質問を出しているが、それも涌出品におけるこの弥勒の疑いにはおよばない。されば仏がこの疑いを晴らさないならば、一代の聖教は泡沫と同じになり、一切衆生は疑いの網にかかってしまうであろう。すなわちこの疑いに正しく答えられた寿量の一品の大切なる理由はこのゆえである。

http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/archives/cat_52524.html
「赤鬼のブログ」より引用



華厳・方等・般若・法華経の宝塔品に来集した大菩薩や
大日経等の金剛薩埵等の十六人の大菩薩や大日経等の大菩薩なども、
この地涌の菩薩に比べると、猿の群れの中に帝釈天が来られたようなものだとも、
山奥の賤民の中に月卿等の貴人がまじわっているようなものだとも表現されています。

また、

  日本の聖徳太子は人王第三十二代用明天皇の御子である。
  御年六歳の時、朝鮮半島や中国大陸からわたってきた学問技芸等を伝来してきた老人たちを指して、
  「わが弟子なり」とおおせられたので、
  かの老人たちは六歳の太子に合掌して
  「我が師であらせられる」といったというが、実にふしぎなことである。

  外典にはまたつぎのような話がある。
  ある人が道を行くと三十歳ばかりの若者が八十歳ばかりの老人をとらえて打っていた。
  どうしたのかと問えば「この老人はわが子である」と青年が答えたという話にも似ている

地涌の菩薩の姿は遥かに釈迦の姿をも上回っていたことが↑の大聖人様の文章からわかると思います。

要するに地涌の菩薩の姿は明らかにお釈迦様以上の存在であったけれども、
過去の仏因(自身が仏になった因)を自覚出来ていないお釈迦様は、本来自身の仏因である自身のお師匠様を


  「阿逸多よ。なんじが昔よりいまだ見たことのないというこれらの大菩薩たちは、
   自分がこの娑婆世界において成仏してよりこのかたもろもろの菩薩を教化し、
   指導して、その心を調伏して大道心をおこさしめたのである」

と、自分が教化したと言ってしまったのでしょう。
何故なら、お釈迦様は
過去の仏因(自身が仏になった因)を自覚出来ていなかったのですから・・・

つづく



[68] 愚人さんへの返答-その5
 投稿者: 法介 投稿日:2016年10月22日(土)08時25分1秒 p1139105-ipngn200808fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp 通報 返信・引用 編集済
|
我々凡夫の悟りと仏である大聖人様の悟りの違いについてもう少し詳しくお話しようと思います。

凡夫の一念の中には、瞑想修行でどこをどう覗き込んでも所詮迷いの一念しか存在しません。

<一心三観>

仮観---有

空観---非有非無

中観---而二不二(亦有亦無)

だからご本尊様という仏縁に向かい勤行・唱題という修行をすることで
ご本尊様の一念(仏の一念)の中から悟りを取り出すことで
悟りを得ることが出来るのです。(三諦の円融)
これを妙法といい、蓮華というのです。

妙法とは、分別・無分別を超えた無分別智であり
蓮華とは、因果の理を悟る姿であり
そこに自身の心を帰依させるから
「南無妙法蓮華経」なのだと私は思います。

仏様の一念三千とは、
http://mh357.web.fc2.com/3-7-3.html
ここ↑の図2で示していますが、ここで私は
   法華経を説かれた状態が空諦なのか中諦なのか判断に迷うところです。
   法を説くのですからおそらく「空諦」だと思われます。
と解説していますが、今はっきりと分かりました。
虚空会の儀式は「中諦」の「双遮双容」、仏界の中の仏界ですね。

衆生世間も国土世間も五陰世間の分別もない
しかし、それぞれの仏・菩薩が元として一箇所に集まって存在している
曼荼羅ご本尊様のあのお姿こそが、
究極の仏の一念三千の姿だと私は思います。


「日蓮がたましひを、墨にそめながして書きて候ぞ、信じさせ給へ。
   仏の御心は法華経なり。
   日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし。」
                    (経王殿御返事)

終わり

(以上は私が54年間真っ直ぐに信心してきた中で感じとってきた
 私の主観に基づきまとめました私の考察に過ぎません。)


  • 法介
  • URL
  • 2016/10/27 (Thu) 05:30:13
 
日蓮聖人の遺文(証言)から釈迦本仏を読む   愚人
[70] 日蓮聖人の遺文(証言)から釈迦本仏を読む
 投稿者: 愚人 投稿日:2016年10月22日(土)11時30分3秒 om126204049014.3.openmobile.ne.jp 通報 返信・引用
 『開目抄』(真蹟遺文)

 此の過去常顕はるゝ時、皆釈尊の分身なり。爾前・迹門の時は、諸仏・釈尊に肩を並べて各修各行の仏なり。かるがゆへに諸仏を本尊とする者、釈尊等を下す。今、華厳の台上・方等・般若・大日経等の諸仏、皆釈尊の眷属なり。仏三十成道の時は、大梵天王・第六天等の知行の娑婆世界を奪ひ取り給ひき。今、爾前・迹門にして、十方を浄土とがうして、此の土を穢土ととかれしを打ちかへして、此の土は本土となり、十方の浄土は垂迹の穢土となる。(平成新編御書五五二・五五三頁)

 『観心本尊抄』(真蹟遺文)

 今本時の娑婆世界は三災を離れ四劫を出でたる常住の浄土なり。仏既に過去にも滅せず未来にも生せず(平成新編御書六五四頁)

 『下山御消息』(真蹟遺文)

 如来は未来を鑑みさせ給ひて、我が滅後正法一千年像法一千年末法一万年が間、我が法門を弘通すべき人々並びに経々を一々にきりあてられて候。

 『総勘文抄』(写本遺文)

 釈迦如来五百塵点劫の当初、凡夫にて御坐せし時、我が身は地水火風空なりと知ろしめして即座に悟りを開きたまひき。(平成新編御書一四一九頁)


 ■これ等の遺文から、日蓮聖人は釈迦本仏論者と観るのが妥当だと愚人は考えます。なお『下山抄』を読むと、地涌菩薩は釈迦仏から本未有善の衆生が生じる末法をきりあてられ、南無妙法蓮華経の五字をきりあてられた事が解ります。



[71] 日蓮聖人の遺文に観る釈迦如来の五百塵点劫の修行
 投稿者: 愚人 投稿日:2016年10月22日(土)12時27分18秒 om126204049014.3.openmobile.ne.jp 通報 返信・引用 編集済
 『当体義抄』(写本遺文)

 □至理は名無し、聖人理を観じて万物に名を付くる時、因果倶時・不思議の一法之有り。之を名づけて妙法蓮華と為す。(平成新編御書六九五頁)

 ■此の時、釈迦仏は瞑想でもしていたのでしょうか、因果倶時・不思議の一法である妙法蓮華を悟ります。日蓮聖人は、「妙法蓮華経」としないで「妙法蓮華」としています。何故に「経」が無いのか?。愚人は、此の時は未だ不思議の一法を悟っただけで教えが無い、声で仏事を為していないからだと推します。

 □聖人此の法を師と為して修行覚道したまへば、妙因妙果倶時に感得し給ふ。故に妙覚果満の如来と成り給ふなり。(平成新編御書六九五頁)

 ■此所に釈迦如来の五百塵点劫の当初における修行が書いてあります。つまり「妙法蓮華」という「法を師と為して修行」したのだと。そして如来と成ったのであると。そして、『三大秘法抄』(写本遺文)に、

 問ふ。所説の要言の法とは何物ぞや。答ふ。夫釈尊初成道より、四味三教乃至法華経の広開三顕一の席を立ちて、略開近顕遠を説かせ給ひし涌出品まで秘せさせ給ひし処の、実相証得の当初修行し給ふ処の寿量品の本尊と戒壇と題目の五字なり。(平成新編御書一五九三頁)

とありますから、凡夫である釈迦は、因果倶時・不思議の一法である「妙法蓮華経」を本尊(法を師)とし「南無妙法蓮華経」と題目を唱え(修行する処は戒壇)妙覚果満の如来と成ったのだと愚人は推します。つまり日蓮聖人の遺文から推すると妙法蓮華経の五字七字・三大秘法は釈迦仏の悟りであると愚人は思います。
 なお、此の時は声で仏事を為していますから「妙法蓮華経」であります。



[72] 愚人さんへ
 投稿者: 法介 投稿日:2016年10月22日(土)16時18分15秒 p1139105-ipngn200808fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp 通報 返信・引用 編集済
|
>[70] 日蓮聖人の遺文(証言)から釈迦本仏を読む

大聖人様は経典になぞられて「上行菩薩の再誕」という立場で御書を書かれておられる場面もありますから、
愚人さんが言われるように、「日蓮聖人は釈迦本仏論者と観るのが妥当」と見受けられる文章があってもおかしくはないでしょう。

大事なのは、その解釈で「つじつまが合うか」ということだと思います。
先にも書きましたように、ピカソの絵はピカソにしか描けない訳ですから
大聖人様が菩薩だったとして、
仏でもない菩薩の大聖人様がどうして仏の一念三千を顕すことが出来るのでしょうか?

そこのところは愚人さんはどう考えておられるのですか?
ご意見をお聞かせください。


>[71] 日蓮聖人の遺文に観る釈迦如来の五百塵点劫の修行

>とありますから、凡夫である釈迦は、因果倶時・不思議の一法である「妙法蓮華経」を本尊(法を師)とし
>「南無妙法蓮華経」と題目を唱え(修行する処は戒壇)妙覚果満の如来と成ったのだと愚人は推します。

その本尊(法=南無妙法蓮華経)が日蓮大聖人様だというのが「日蓮本仏論」です。



[73] 伝教大師『願文』
 投稿者: 愚人 投稿日:2016年10月22日(土)16時39分43秒 om126204049014.3.openmobile.ne.jp 通報 返信・引用
 伏して願わくは、解脱の味、独り飲まず、安楽の果、独り証せず。法界の衆生と同じく妙覚に登り、法界の衆生と同じく妙味を服せん。

 【解説】(前略)私たちが味わう喜びも苦しみも、自分を価値の中心に置き、判断しているからに他なりません。こうした自分に対するとらわれこそが苦の原因であると仏教では考えます。
 ではそのとわられから自由になるには、どうしたら良いのでしょうか。それには、他の人のことも考えて行動するところから始めることです。最初は身近な人、たとえば家族や近隣の人など親しい人から始めて、その思いを広げていく。さらに人間だけでなく生きものすべてに、地球全体、宇宙全体まで心を広げていく。自分とこの世のあらゆる存在とのつながりを思うとき、自分へのとらわれから自由になれるのです。それは決して容易ではありません。しかし、他の人、他の生きものと共に歩み、少しでも皆が安楽となる世界を目指すことこそが、伝教大師が理想とした境地なのです。(伝教大師の生涯と教え164~166頁)

 ■日蓮聖人の遺文『爾前二乗菩薩不作仏事』に、

 一切の菩薩必ず四弘誓願を発こすべき。其の中の衆生無辺誓願度の願之を満足せざれば、無上菩提誓願証の願又成じ難し。(平成新編御書一八一頁)

とあります。先ず他の人を安楽にしてこそ自らの安楽があるのだと日蓮聖人は教えているのだと思います。


 次は同書から、『学生式』の文と解説を引用したいと思います。



[74] 日蓮聖人の曼荼羅本尊
 投稿者: 愚人 投稿日:2016年10月22日(土)17時19分21秒 om126204049014.3.openmobile.ne.jp 通報 返信・引用 編集済
 ピカソの絵はピカソでなくても書けます。それは模写です。
 真偽はともかく、釈迦仏の悟りは口伝され、釈迦仏の経典・日蓮聖人の遺文は写本され、その法門を私達は現代に教授されています。
 また、やはり真偽はともかく、曼荼羅本尊の書式・意義等も現代まで口伝され相伝されています。


 さて、『衆生身心御書』に、

 しかれども人のつかひに三人あり。一人はきわめてこざかしき。一人ははか(果)なく(無)もなし、又こざかしからず。一人はきわめてはかなくたしかなる。此の三人に第一はあや(過)まちなし。第二は第一ほどこそなけれども、すこしこざかしきゆへに、主の御ことばに私の言をそ(添)うるゆへに、第一のわる(悪)きつか(使)いとなる。第三はきわめてはかなくあるゆへに、私の言をまじ(交)えず。きわめて正直なるゆへに主の言をたがへず。第二よりもよき事にて候。あやまって第一よりもすぐれて候なり。第一をば月支の四依にたと(譬)う。第二をば漢土の人師にたとう。第三をば末代の凡夫の中に愚痴にして正直なる物にたとう。(平成新編御書一二一三頁)

とあります。日蓮聖人は、此の文の第三の正直の使者であり、仏から授けられた法(南無妙法蓮華経/一念三千)に少しも添削することなく違えることもありません。日蓮聖人が図顕した曼荼羅本尊は釈迦仏から授けられたもの、相伝されたものを正直にそのまま顕したものであると愚人は推しています。



[75] お答えください
 投稿者: 法介 投稿日:2016年10月23日(日)06時03分20秒 p1139105-ipngn200808fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp 通報 返信・引用
|
>>とありますから、凡夫である釈迦は、因果倶時・不思議の一法である「妙法蓮華経」を本尊(法を師)とし
>>「南無妙法蓮華経」と題目を唱え(修行する処は戒壇)妙覚果満の如来と成ったのだと愚人は推します。

>その本尊(法=南無妙法蓮華経)が日蓮大聖人様だというのが「日蓮本仏論」です。

その本尊(法=南無妙法蓮華経)-----------法=南無妙法蓮華経=日蓮大聖人様

↑が私の考えです。

>ピカソの絵はピカソでなくても書けます。それは模写です。

その本尊(法=南無妙法蓮華経)-----------法=南無妙法蓮華経=(          )

カッコに入る言葉は愚人さんの場合、日蓮大聖人様ではない(日蓮非本仏論)訳ですから、
何が入るのですか?



[76] 五百塵点劫の当初の本尊
 投稿者: 愚人 投稿日:2016年10月23日(日)07時07分52秒 om126204049014.3.openmobile.ne.jp 通報 返信・引用
>ピカソの絵はピカソでなくても書けます。それは模写

 ■これは、創作した人でなくてもそのモノは製作出きるとの意味です。

その本尊(法=南無妙法蓮華経)-----------法=南無妙法蓮華経=(          )

カッコに入る言葉は愚人さんの場合、日蓮大聖人様ではない(日蓮非本仏論)訳ですから、
何が入るのですか?

 ■空白です。五百塵点劫の当初に聖人(凡夫)が因果倶時・不思議の一法を観じて妙法蓮華と名付けた時は無仏だからです。



[77] 相違のポイント
 投稿者: 法介 投稿日:2016年10月23日(日)07時25分26秒 p1139105-ipngn200808fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp 通報 返信・引用 編集済
|
法=南無妙法蓮華経=(          )

このカッコの部分に「お釈迦様」が入るのが日蓮宗で
「宇宙に遍満する法(宇宙を貫く法)」が入るのが創価学会です。

ここの部分を愚人さんがどのように考えているのか、凄く興味があったところですが
「空白です。」な訳ですね。

ここが私と愚人さんの「意見の相違の根源」だと思いますので、この件につきて更に深く議論していきたいので、文章をまとめてみます。


  • 法介
  • URL
  • 2016/10/27 (Thu) 05:34:26
 
南無妙法蓮華経とは何ぞや-①   法介
[78] 南無妙法蓮華経とは何ぞや-①
 投稿者: 法介 投稿日:2016年10月23日(日)10時08分36秒 p1139105-ipngn200808fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp 通報 返信・引用 編集済
|
まず、
法=南無妙法蓮華経=(          )
の議論にあたって

お釈迦様が仏になった姿は本果です。でその因の方を本因と言います。
因果の理法からとらえたお釈迦様の仏の因果です。

釈迦の過去世での修行に於いて、釈迦が何をもって修行をしていたかが本因です。
そこのところを愚人さんが、具体的に御書から拾い上げて指し示して下さいました。

まず、『当体義抄』の中から、以下の二つの御文。

 [本文①]
 至理は名無し、聖人理を観じて万物に名を付くる時、因果倶時・不思議の一法之有り。
  之を名づけて妙法蓮華と為す。   (平成新編御書六九五頁)

 [現代語訳]
 妙法の至理には、もともと名はなかったが、聖人(釈迦)がその理を勧じて万物に名をつけるとき、
 因果倶時の不思議な一法があり、これを名づけて妙法蓮華と称したのである。


「愚人さんの解説」
 此の時、釈迦仏は瞑想でもしていたのでしょうか、因果倶時・不思議の一法である妙法蓮華を悟ります。
日蓮聖人は、「妙法蓮華経」としないで「妙法蓮華」としています。何故に「経」が無いのか?。
愚人は、此の時は未だ不思議の一法を悟っただけで教えが無い、声で仏事を為していないからだと推します。


 [本文②]
 聖人(釈迦)此の法を師と為して修行覚道したまへば、妙因妙果倶時に感得し給ふ。
 故に妙覚果満の如来と成り給ふなり。(平成新編御書六九五頁)

 [現代語訳]
 聖人(釈迦)は、この妙法蓮華の法を師として修行し覚られたから、
 妙因・妙果を倶時に感得し、妙覚果満の如来となられたのである。


「愚人さんの解説」
 此所に釈迦如来の五百塵点劫の当初における修行が書いてあります。
つまり「妙法蓮華」という「法を師と為して修行」したのだと。
そして如来と成ったのであると。
そして、『三大秘法抄』に、


 [本文]
 問ふ。所説の要言の法とは何物ぞや。答ふ。夫釈尊初成道より、
 四味三教乃至法華経の広開三顕一の席を立ちて、略開近顕遠を説かせ給ひし涌出品まで秘せさせ給ひし処の、
 実相証得の当初修行し給ふ処の寿量品の本尊と戒壇と題目の五字なり。
(三大秘法抄 平成新編御書一五九三頁)


 [現代語訳]
 問う。説くところの要言の法とは何物であるのか。
 答えていう。釈尊が初めて成道して以来、四味三教から法華経の広開三顕一の席を立って、
 略開近顕遠を説かれた従地涌出品第十五まで秘せられた。
 諸法の実相を証得したその昔に修行されたところの寿量品の本尊と戒壇と題目の五字である。
 (平成新編御書一五九三頁)


「愚人さんの解説」
 とありますから、凡夫である釈迦は、因果倶時・不思議の一法である「妙法蓮華経」を本尊(法を師)とし
「南無妙法蓮華経」と題目を唱え(修行する処は戒壇)妙覚果満の如来と成ったのだと愚人は推します。
つまり日蓮聖人の遺文から推すると妙法蓮華経の五字七字・三大秘法は釈迦仏の悟りであると愚人は思います。
 なお、此の時は声で仏事を為していますから「妙法蓮華経」であります。


以上の御文から、お釈迦様が仏になった本因が「法」であり、妙法蓮華経の五字七字
要するに、「法=南無妙法蓮華経」であることは、
私法介と愚人さんとでは意見は一致しております。

その次の、法=南無妙法蓮華経=(          )
の(  )を埋める言葉が愚人さんと私とでは違ってきています。


<愚人さん>
五百塵点劫の当初に聖人(凡夫)が因果倶時・不思議の一法を観じて妙法蓮華と名付けた時は無仏だから

法=南無妙法蓮華経=(  空白     )

<法介>

法=南無妙法蓮華経=(  日蓮大聖人  )


つづく




[79] 伝教大師『山家学生式』(六条式)
 投稿者: 愚人 投稿日:2016年10月23日(日)11時01分46秒 softbank126074107136.bbtec.net 通報 返信・引用
 国宝とは何物ぞ。宝とは道心なり。道心あるの人を名づけて国宝となす。故に古人の言く、径寸十枚、是れ国宝に非ず。一隅を照らす(照千一隅)、此れ則ち国宝なりと。

 古哲また云く、能く言いて行うこと能わざるは国の師なり。能く行いて言うこと能わざるは国の用なり。能く行い言うは国の宝なり。三品の内、ただ言うこと能わず行うこと能わざるを国の賊となすと。

 【解説】(前略)自分の能力を周囲のために発揮しないものこそ、賊なのです。それぞれが持つ能力に応じた活躍の場を与え、それぞれの個性を活かそうとしている点に、伝教大師の目指す仏教の姿が窺えます。(伝教大師の生涯と教え196~173頁)


  • 法介
  • URL
  • 2016/10/27 (Thu) 05:35:17
 
南無妙法蓮華経とは何ぞや-②  法介
[80] 南無妙法蓮華経とは何ぞや-②
 投稿者: 法介 投稿日:2016年10月23日(日)18時47分17秒 p1139105-ipngn200808fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp 通報 返信・引用 編集済
|
お釈迦様が仏になった本因の法である「南無妙法蓮華経」とは、

を語る前に教学理解を深める為に先に解説しておりました
http://mh357.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=11871731#21106170
三世諸仏総勘文教相廃立、別名「総勘文抄」を再び持ち出したいと思います。

前回は、私がホームページで紹介しています「分別・無分別」のお話が、
この「総勘文抄」に照らして間違いでないことを解説させて頂きました。

今回は、その少し先の文段になりますが、学会版御書564ページ15行目からです。


[本文]
十法界は十なれども十如是は一なり 譬えば水中の月は無量なりと雖も虚空の月は一なるが如し、九法界の十如是は夢中の十如是なるが故に水中の月の如し 仏法界の十如是は本覚の寤の十如是なれば虚空の月の如し、是の故に仏界の一つの十如是顕れぬれば九法界の十如是の水中の月の如きも 一も闕減無く同時に皆顕れて体と用と一具にして一体の仏と成る、十法界を互に具足し平等なる十界の衆生なれば 虚空の本月も水中の末月も一人の身中に具足して闕くること無し 故に十如是は本末究竟して等しく差別無し、本とは衆生の十如是なり末とは諸仏の十如是なり諸仏は衆生の一念の心より顕れ給えば衆生は是れ本なり諸仏は是れ末なり、


まず、
  「十法界は十なれども十如是は一なり 譬えば水中の月は無量なりと雖も虚空の月は一なるが如し、
   九法界の十如是は夢中の十如是なるが故に水中の月の如し
   仏法界の十如是は本覚の寤の十如是なれば虚空の月の如し、」

ここでいう九法界の十如是とは十界の中の仏界をのぞいた九界の十如是で、
なぜ仏界を外しているのかといえば
我々凡夫にそなわる仏界は十界が互具するゆえに理具として備わっている仏界でして
厳密にいえば、我々凡夫は九界の中でそれぞれ十界があらわれているのです。
その九界の中の十界のいずれかの相が十如是の始まりの「如是相」となって十如是が動き出します。

そして衆生各々がお題目を唱えて最終的に境智冥合して感じとる仏界は九界の中の仏界なので、
「水面に映る無量の月」と大聖人様は表現なされております。

それに対し、「虚空の月は一なるが如し」とあるように仏界の中の仏界は唯一つ、
それが大聖人様の仏界(仏の事の一念三千)ご本尊様です。

ここのところをはき違えると、
創価学会のように自身にも仏界があるから大聖人様と同等の仏なんだと思い込んでしまうのです。
我々凡夫はどんなに頑張っても九界の衆生(迷いの一念三千)でしかないのです。

だからご本尊様と境智冥合させて頂いて九界の中の仏界と仏界の中の九界、
わかり易く言うならば、今の自分が人界であるならば、
人界の中の仏界とご本尊様の仏界の中の人界とが境智冥合するから自身の心の水面に
ご本尊様の仏界が映し出されて仏界を感じ取ることが出来るのです。

それが次の御文です。

 「是の故に仏界の一つの十如是顕れぬれば九法界の十如是の水中の月の如きも
  一も闕減無く同時に皆顕れて体と用と一具にして 一体の仏と成る」

その次の御文は、こちらの図解説明の<仮諦><空諦><中諦>の図を確認してください。
http://mh357.web.fc2.com/3-7-2.html

 「十法界を互に具足し平等なる十界の衆生なれば
  虚空の本月も水中の末月も一人の身中に具足して闕くること無し
  故に十如是は本末究竟して等しく差別無し、本とは衆生の十如是なり末とは諸仏の十如是なり」

<仮諦><空諦><中諦>のそれぞれの図は、
仮諦は如是相を中心として働く十如是で仮の姿に執着して正しい判断が出来ないでいる状態です。(分別法)
空諦は如是性を中心として働く十如是で「無我・無自称」で対象をとらえることが出来ている状態です。(無分別法)
中諦は如是体を中心として働く十如是でご本尊様と境智冥合し正しい判断を得た状態です。(無分別智=仏の智恵)
ということです。

そして次の御文が大事なところです。

「諸仏は衆生の一念の心より顕れ給えば 衆生は是れ本なり諸仏は是れ末なり」

衆生の凡夫の迷いの一念から諸仏の悟りの一念を取り出す、これが妙法だということです。
言い換えれば分別法を無分別法に転じて最終的に無分別智(仏の智恵)を取り出すということです。
そのことは、『生死一大事血脈抄』の

「妙は死 法は生なり 此の生死の二法が十界の当体なり」

との御文と照合しても

妙は死=無分別法
法は生=分別法

よって、「分別法を無分別法に転じて最終的に無分別智(仏の智恵)を取り出す」ということが妙法だと言えると思います。

そして「衆生は是れ本なり諸仏は是れ末なり」の御文に含まれる重要な言葉の意味を
続けてご説明します。

つづく




[81] 仏と凡夫
 投稿者: 愚人 投稿日:2016年10月23日(日)21時07分28秒 softbank126074090154.bbtec.net 通報 返信・引用 編集済
 『御義口伝』

 開仏知見の仏とは九界所具の仏界なり。知見とは妙法の二字、止観の二字、寂照の二徳、生死の二法なり、色心因果なり。所詮知見とは妙法なり。九界所具の仏心を法華経の知見にて開く事なり。爰を以て之を思ふに仏とは九界の衆生の事なり。此の開覚顕はれて今身より仏身に至るまで持つや否やと示す処が、妙法を示す示仏知見と云ふなり。師弟感応して受くる時、如我等無異と悟るを悟仏知見と云ふなり。悟りて見れば法界三千の己々の当体法華経なり。此の内証に入るを入仏知見と云ふなり。秘すべし云云(平成新編1728頁)

 ■本より仏なるを仏に非ずと迷うを凡夫と言い、妙法によりて本より仏なりと開きたるを仏と言う。しかし、本より仏なりと知るも、

 仏はうへての如く、衆生は田の如くなり。若し此等の義をたがへさせ給はゞ日蓮も後生は助け申すまじく候。(『曾谷殿御返事』平成新編御書一〇四〇頁)

とあるように能所の差別を知り本従を違えてはならない。かといって自らを蔑むも良くない。一辺に偏らず中道を知るが大事だと愚人は思う。要するに慢にならず卑にならずです。

  • 法介
  • URL
  • 2016/10/27 (Thu) 05:37:02
 
南無妙法蓮華経とは何ぞや-③  法介
[82] 南無妙法蓮華経とは何ぞや-③
 投稿者: 法介 投稿日:2016年10月24日(月)07時16分27秒 p1157135-ipngn200808fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp 通報 返信・引用 編集済
|
「総勘文抄」の「衆生は是れ本なり諸仏は是れ末なり」
の御文について論じます。

「当体義抄」でも同じようなことを大聖人様はいわれております。
  「南岳大師の四安楽行に云く「大強精進経に云く
   衆生と如来と同共一法身にして清浄妙無比なるを妙法華経と称す」」

「一念三千法門」では更にそのことを詳しくのべられていますのでご紹介します。

[本文]
十界の衆生・各互に十界を具足す合すれば百界なり百界に各各十如を具すれば千如なり、此の千如是に衆生世間・国土世間・五陰世間を具すれば三千なり、百界と顕れたる色相は皆総て仮の義なれば仮諦の一なり千如は総て空の義なれば空諦の一なり 三千世間は総じて法身の義なれば中道の一なり、法門多しと雖も但三諦なり此の三諦を三身如来とも三徳究竟とも申すなり 始の三如是は本覚の如来なり、終の七如是と一体にして無二無別なれば本末究竟等とは申すなり、本と申すは仏性・末と申すは未顕の仏・九界の名なり究竟等と申すは妙覚究竟の如来と理即の凡夫なる我等と 差別無きを究竟等とも平等大慧の法華経とも申すなり、

[現代語訳]
 十界の衆生がおのおの互いに十界を具足する。合すれば百界である。百界におのおの十如是を具すれば千如である。この千如是に衆生世間・国土世間・五陰世間を具すれば三千世間である。百界と顕れた姿形は皆、すべて仮の義だから仮諦の一義である。千如是はすべて空の義だから空諦の一義である。三千世間は総じて法身の義だから中道の一義である。法門が多いといっても、ただ三諦に収まる。この三諦を三身如来とも三徳究竟ともいうのである。

 初めの三如是は本覚の如来である。終わりの七如是と一体であって無二無別だから本末究竟等とはいうのである。本ということは仏性、末ということは未顕の仏、九界の名である。究竟等というのは妙覚究竟の如来と理即の凡夫である我等と差別がないことを究竟等とも平等大慧の法華経ともいうのである。


[法介の解釈]
 これまで私の解説にお付き合い頂いている方なら
この文段の前半部分で言われている内容は、既にご理解頂けるかと思います。

ここでは、文段の後半部分に注目して下さい。

 「始の三如是は本覚の如来なり、終の七如是と一体にして無二無別なれば
  本末究竟等とは申すなり」

一心三観の観法に於ける空・仮・中の三観はいずれも迷いの凡夫の一念を観ずる手法ですが、
それに対し空・仮・中の三諦は仏の悟りの一念を得る事を言います。

具体的には、ここでも述べましたけれでも
http://mh357.web.fc2.com/4-2.html
一心三観には仏の悟りは含まれません。凡夫の己心の中はどこをどう探っても迷いの一念でしかないのです。

<一心三観>

仮観---有

空観---非有非無

中観---而二不二(亦有亦無)

では、空・仮・中の三諦がなぜ仏の悟りの一念を得ることになるかと言えば、
http://mh357.web.fc2.com/3-7-2.html
ここ↑の図の<仮諦>をよくご覧頂きたいのですが、
一心三観の場合の中道の如是相は
凡夫の如是相が起点となるので凡夫の十如是が発動します。(如是相から始まって本末苦境等まで凡夫の一念)

しかし、<仮諦>図では、ご本尊様と向き合うことで
凡夫の九界の中の仏界の如是相が起点となって十如是が動き出します。

これが一心三観の観法と、空・仮・中の三諦、すなわち事の一念三千の観念の違いです。

<空諦>の図は、先の如是相が百界の相にとらわれたものの見方なのに対し、
「如是性」を中心においたものの見方、即ち千如(因果の理法)をとらえた状態になります。

そして<中諦>の図は、「如是体」を中心においたものの見方、
如是体は三世間が加わると大聖人様はいわれていますので、
過去世の自身の行いが因となって現在の自身の姿がそこに存在しているということになります。

具体的にいうならば、過去世の行いによって
自身がどのような親の元に生まれてくるか(衆生世間)、
平和な国に生まれてくるか戦時の耐えない国に生まれてくるか(国土世間)、
五体満足な体で生まれてくるか否か(五陰世間)が決まってくるということです。

そして、この空・仮・中の三諦の円融(空・仮・中が転じていく様)は、
ご本尊様と向き合う唱題行に寄って
迷いの凡夫の一念が仏の悟りの一念に転じていく姿であり、それが

  「始の三如是は本覚の如来なり、終の七如是と一体にして無二無別なれば本末究竟等とは申すなり、
   本と申すは仏性・末と申すは未顕の仏・九界の名なり
   究竟等と申すは妙覚究竟の如来と理即の凡夫なる我等と
   差別無きを究竟等とも平等大慧の法華経とも申すなり、」

の御文の意味だと私は思います。

つづく



[83] 南無妙法蓮華経とは何ぞや-④
 投稿者: 法介 投稿日:2016年10月24日(月)07時40分57秒 p1157135-ipngn200808fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp 通報 返信・引用 編集済
|
南無妙法蓮華経とは何ぞや-③ の説明で
仏と衆生の関係に於ける本末苦境等がご理解頂けた方なら
「総勘文抄」の次の御文の意味もご理解頂けるかと思います。

  「衆生は本覚の十如是なりと雖も一念の無明眠りの如く心を覆うて
   生死の夢に入つて本覚の理を忘れ髪筋を切る程に過去・現在・未来の三世の虚夢を見るなり、
   仏は寤の人の如くなれば生死の夢に入つて衆生を
   驚かし給える智慧は夢の中にて父母の如く夢の中なる我等は子息の如くなり」

よって

  「此の理を思い解けば諸仏と我等とは本の故にも父子なり末の故にも父子なり」

仏と我等凡夫とは父と子の関係なのです。
大聖人様が御書の中でよく言われる「血脈」ですが、
親子だからこそ流れる「血脈」を例えてそう表現なされていると私は思います。

そして、この「親と子の関係」が今回の論説の重要なポイントになります。

つづく


  • 法介
  • URL
  • 2016/10/27 (Thu) 05:38:35
 
南無妙法蓮華経とは何ぞや-⑤  法介
[84] 南無妙法蓮華経とは何ぞや-⑤
 投稿者: 法介 投稿日:2016年10月24日(月)11時32分52秒 p1157135-ipngn200808fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp 通報 返信・引用 編集済
|
子は親が存在するからこそ存在する訳で
言いかえますと、
我々凡夫は仏が存在するからこそ存在する訳です。


また、「煩悩即菩提」(煩悩があるから悟りがある)という言葉は
煩悩が「因」となって悟りの「果」を得るとも言えます。


以上のことを頭に留めて今からのお話をお聞き下さいませ。


「総勘文抄」をさらに読み進めて参りますと、次の御文が出てきます。

  「生と死と二つの理は生死の夢の理なり妄想なり顛倒なり本覚の寤を以て我が心性を糾せば
   生ず可き始めも無きが故に 死す可き終りも無し既に生死を離れたる心法に非ずや」

我々凡夫が生と死という分別法で人生をとらえた場合の真実は
縁起の法門によって仮に存在している百界の差別相になります。

そして分別法ではなく無分別法で生命をとらえた時、
その差別相がどうしてあわわれているのかというカラクリが千如是であり、
その当体が現在の自身の姿だと悟り得ます。

その自身の生命が生と死を繰り返し輪廻しているという真実を悟った時、
生命とは「無始無終」で存在していると気づきます。

我々凡夫は仏道修行で悟りを得て成仏へと辿り着きます。
凡夫であったお釈迦様が
仏と成ることに寄ってそのことを示して下さいました。

しかし、早合点(はやがてん)しないで下さい。
凡夫が修行を経て仏へと成仏することと、
もともと仏として存在している久遠の本仏である仏とでは
同じ仏でも種類が異なります。

お釈迦様は、

 「聖人(釈迦)此の法を師と為して修行覚道したまへば、妙因妙果倶時に感得し給ふ。
  故に妙覚果満の如来と成り給ふなり。」  (平成新編御書六九五頁)

とあるように五百塵点劫の当初において修行をして仏になりました。

「無始無終」であるならば仏は最初から終わりまで変わることなく仏として存在するのです。
お釈迦様は始めは凡夫な訳でして修行をして仏になったのです。

何が言いたいのかと言いますと、この図をご覧下さい。
http://mh357.web.fc2.com/3-7-1.html
ここ↑の図2の死後の世界、ここが凡夫が成仏したポジションにあたります。
お釈迦様はこのポジションに位置するのです。

仮諦(分別法の世界) -------------凡夫    (衆生)
空諦(無分別法の世界)-------------成仏した凡夫(お釈迦様)仏
中諦(分別・無分別を超えた世界)---久遠の仏  (大聖人様)仏

大聖人様はお釈迦様とは違って久遠の時点から既に仏なのです。
そして久遠の時点から凡夫も存在しているのです。
「無始無終」な訳ですから、
「生ず可き始めも無きが故に 死す可き終りも無し」とあるとおり
凡夫は凡夫として仏は仏として始めから終わりまで変わらないのです。
ただ凡夫は迷いの眠りから覚めれば仏となるし、迷いの世界に陥れば凡夫となって転生します。
(成仏しそこなって餓鬼界に落ちれば霊となって存在し、畜生界に落ちれば動物に生まれ変わるのでしょう。)

仮諦と空諦は裏表の関係で而二不二の凡夫(仏にもなりうる)で
中諦が久遠の本仏となります。

この凡夫と仏(本仏)の関係は因位と果位の関係でもあります。
我々凡夫はどんなに頑張っても因位の位での悟りなのに対し
大聖人様は果位の位での仏であり本仏ですので、
凡夫の我々は御本仏の仏様にはとうてい及ばないのです。

そのような因果が「無始無終」で因(凡夫)と果(仏)が同時に存在していることを
蓮華の花に例えて「蓮華」と名づけられたんだと思います。

妙法は生(分別)と死(無分別)の二法をあわせた十界の相(如是相)。
蓮華は因果の理法(如是性)。
妙法蓮華経は相と性を備えた当体(如是体)ではないでしょうか。

お釈迦様が久遠において修行したとされる「法=南無妙法蓮華経」は、
この果位の本仏、日蓮大聖人様だと思いますので、

法=南無妙法蓮華経=( 日蓮大聖人様 )

となるのが私の考えです。

終わり
  • 法介
  • URL
  • 2016/10/27 (Thu) 05:39:49
 
伝教大師の言葉  愚人
[85] 伝教大師の言葉
 投稿者: 愚人 投稿日:2016年10月25日(火)02時52分44秒 om126186240117.7.openmobile.ne.jp 通報 返信・引用
 『伝述一心戒文』

 道は人を弘め、人は道を弘む。道心の中に衣食あり、衣食の中に道心なし。(刊/創元社刊 著/多田孝正 木内堯大 『最澄』112頁)

 怨みをもって怨みに報ゆれば、怨みは止まず。徳をもって怨みに報ゆれば、怨みはすなわち尽く。(『最澄』116頁)

 『叡山大師伝』

 我れ生まれてよりこのかた、口に麁言なく、手に苔罰(ちばつ)せず。いま我が同法、童子を打たずんば、我がために大恩なり。努めよ、努めよ。(『最澄』120頁)

 ■童子=叡山僧の生活の世話をし、清掃などをはじめとする雑務を行い、僧侶の活動を支える少年たち。



[86] 三重秘伝
 投稿者: 法介 投稿日:2016年10月25日(火)05時14分59秒 p1157135-ipngn200808fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp 通報 返信・引用 編集済
|
<御法主日顕上人猊下御説法>

さて、文底顕本に関する御書の証文としては、『開目抄』の、


 「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり」(御書526)


の文が挙げられます。 この御文について「一念三千」の語を、天台の法門の如く凡夫が法華経の理によって
己れの心を観ずる修行の方法とのみ考えるのは、まことに浅薄であります。
というのは、この文は大聖人様が一念三千の法門には三重の別があることを御指南だからであります。
つまり「但法華経」とは権実相対して顕される迹門実相中心の天台の一念三千を示し、次の「本門寿量品」とは、
さらに一重深く本迹相対して、在世の衆生が釈尊の本門によって得道する一念三千を顕されているのであります。
これに対し「文の底」とは文上の寿量品と異なり、種脱相対しての甚深の一念三千であることを明らかに説示されたのであります。

(総本山御大会の砌 H17.11.20より)

ここまで私のお話にお付き合い頂いた方なら
天台が顕した理の一念三千と
成仏した姿を示したお釈迦様の法華経と(本果妙)
末法に於いて大聖人様が顕した「南無妙法蓮華経」(本因妙)の違いを
ご理解頂けたかと思います。


日寛上人は「三重秘伝抄」の中で一念三千の法門が
権実相対・本迹相対・種脱相対と従浅至深して説き顕されている様を
「但法華経」「但本門寿量品」「但文底秘沈」の三重に別して解説なされております。



「但法華経」
権実相対において爾前権経と実経である法華経を比較相対し、
法華経のみに一念三千の法門が説かれています。
それを天台が理論的に説きあらわしたのが理の一念三千です。

「但本門寿量品」
本迹相対において法華経を迹門と本門とで比較相対し、
本門の寿量品のみに一念三千が説き明かされています。
成仏した釈迦が示した本果妙の一念三千です。

「但文底秘沈」
釈尊が説いた文上の寿量品と、
日蓮大聖人の文底の寿量品の二種の寿量品を比較相対し、
文底の寿量品こそ成仏の因となりうる本因妙の事の一念三千です。


愚人さん
>道心の中に衣食あり、衣食の中に道心なし。
>口に麁言なく、手に苔罰(ちばつ)せず。
の意味がいまいちつかめません・・・



[88] 法介氏
 投稿者: 愚人 投稿日:2016年10月25日(火)20時55分39秒 softbank126094237044.bbtec.net 通報 返信・引用
 『伝述一心戒文』

 道は人を弘め、人は道を弘む。道心の中に衣食あり、衣食の中に道心なし。

 【現代語訳】仏道が仏法を知る人を広め、またそうした仏法を知った人が仏道を広めるのです。仏道をもとめる心の中に衣食はあるのであって、衣食を求める中には道心はありません。

 (前略)
 しかし、服を着るため、食事を手に入れるために修行をしているのではありません。名利や欲望を満たすための修行は真実の修行ではないのです。
 僧侶の真摯に仏道を求める心と態度を見た人が、それに感動し、思わず修行生活を助けずにはいられないという気持ちになります。その時に初めて衣食は備わるのであって、最初から衣食をいただくためという気持ちで修行を実践していても、その態度は見透かされてしまい、支援してくれる人など現れません。(『最澄』112~114)


 『叡山大師伝』

 我れ生まれてよりこのかた、口に麁言なく、手に苔罰(ちばつ)せず。いま我が同法、童子を打たずんば、我がために大恩なり。努めよ、努めよ。

 【現代語訳】私はうまれてからずっと、荒々しい言葉を発したこともなければ、手に苔を持って人を打ったこともありません。私の仲間たちよ、童子をぶつようなことをしないでくれたら、私はこのうえなくありがたく思います。どうかくれぐれもそのように努めてもらいたい。(『最澄』120頁)



[91] 愚人さん
 投稿者: 法介 投稿日:2016年10月26日(水)06時31分20秒 p1157135-ipngn200808fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp 通報 返信・引用 編集済
|
なるほどそういう意味なのですね。
解り易く書いて頂き、ありがとうございました。

「伝教大師の言葉」感銘致しました。
  • 法介
  • URL
  • 2016/10/27 (Thu) 05:42:07
 

ホーム

>