三世諸仏総勘文教相廃立 (総勘文抄)
第五章 「総勘文抄」

この章は御書を中心にお話をして参りますので、難しいなと感じられた方は、
飛ばして次の第六章へ読み続けてください。


「分別・無分別」についての大聖人様の御言葉を
 御書の総勘文抄を拝しながら紹介して参ります。


三世諸仏総勘文教相廃立-[本文]①

[本文]①(学会版御書 560ページ4行目から)
此の前三教には仏に成らざる証拠を説き置き給いて 末代の衆生に慧解を開かしむるなり 九界の衆生は一念の無明の眠の中に於て生死の夢に溺れて 本覚の寤を忘れ夢の是非に執して冥きより冥きに入る、 是の故に如来は我等が生死の夢の中に入つて顛倒の衆生に同じて夢中の語を以て 夢中の衆生を誘い夢中の善悪の差別の事を説いて漸漸に誘引し給うに、 夢中の善悪の事重畳して様様に無量・無辺なれば 先ず善事に付いて上中下を立つ三乗の法是なり、 三三九品なり、此くの如く説き已つて 後に又上上品の根本善を立て 上中下・三三九品の善と云う、 皆悉く九界生死の夢の中の善悪の是非なり今是をば総じて邪見外道と為す捜要記の意、此の上に又上上品の善心は本覚の寤の理なれば此れを善の本と云うと説き聞かせ給し時に 夢中の善悪の悟の力を以ての故に 寤の本心の実相の理を始めて聞知せられし事なり、 是の時に仏説いて言く夢と寤との二は虚事と実事との二の事なれども心法は只一なり、 眠の縁に値いぬれば夢なり眠去りぬれば寤の心なり心法は只一なりと開会せらるべき下地を造り置かれし方便なり此れは別教の中道の理 是の故に未だ十界互具・円融相即を顕さざれば 成仏の人無し故に三蔵教より別教に至るまで 四十二年の間の八教は皆悉く方便・夢中の善悪なり、 只暫く之を用いて衆生を誘引し給う 支度方便なり此の権教の中にも分分に皆悉く方便と真実と有りて権実の法闕けざるなり、 四教一一に各四門有つて差別有ること無し 語も只同じ語なり文字も異ること無し 斯れに由つて語に迷いて権実の差別を分別せざる時を 仏法滅すと云う

[現代語訳]
 釈尊はこの前三教では仏になることができない証拠を説き置かれて、末代の衆生に慧解を開かせたものである。
 九界の衆生は一念の無明という眠りのなかにあって、生死の夢に溺れて、本覚の寤を忘れ、夢のなかでの是非に執着して、冥きから冥きへとさまよっているのである。それゆえに如来は、我らの生死の夢のなかに入って、顛倒の衆生と同じ境界に立ち、夢のなかの言葉を使って、夢のなかにある衆生を誘い導き、夢のなかでの善悪の差別を説いて次第に誘引されるのであるが。夢のなかの善悪のことは、重なり合ってさまざまであり、無量無辺であるので、まず善のことについて上・中・下の三つを立てた。いわゆる声聞・縁覚・菩薩の三乗の法がこれである。この三乗の法を修行する人にまた上根・中根・下根の別があるので、三三九品となる。
 このように説き終わって後に、上上品の根本の善を立てられたのを、上中下三三九品の善というのである。
 しかしこれらは、皆ことごとく九界生死の夢のなかの是非善悪である。今これを総じて邪見であり、外道とするのである。これは妙楽大師の摩訶止観捜要記の意である。
 このうえにまた、上上品の善心は本覚の寤の法理だから、これが善の根本であると説き聞かせたときに、夢の中ながら善悪を立て分ける悟りの力によって寤の本心の実相の法理を初めて聞知することができたのである。
 このとき仏は「夢と寤との二つは、架空のことで実際のことと違いがあるけれども、心法はただ一つである。眠りの縁に値えば夢を見、眠りが去れば寤の心に戻るのであって、心法はただ一つである」と開会されたが、その開会の下地を作り置くための方便の教えである。これは別教の中道の法理にのっとっているのである。
 このゆえに、未だ十界互具・円融相即を顕していないので、成仏の人はいないのである。このように三蔵教から別教に至るまで四十二年の間の八教は皆ことごとく方便の教えであり、夢のなかの善悪を説いたものである。ただしばらくの間、衆生を誘引するために用いられた支度・方便の教えなのである。
 この権教のなかにも、それぞれに皆ことごとく方便と真実があり、権実の法が欠けていないのである。四教の一々にそれぞれ有門・空門・亦有亦空門・非有非空門の四門があって差別がないのである。また言葉も同じであり、文字にも違いがない。これによって、言葉に迷って権実の差別をわきまえないときを仏法が滅びるというのである。
  • 法介
  • URL
  • 2016/10/11 (Tue) 17:31:01
 
[本文]①解釈-1
[現代語訳]
九界の衆生は一念の無明の眠の中に於て生死の夢に溺れて 本覚の寤を忘れ夢の是非に執して冥きより冥きに入る、 是の故に如来は我等が生死の夢の中に入つて顛倒の衆生に同じて夢中の語を以て 夢中の衆生を誘い夢中の善悪の差別の事を説いて漸漸に誘引し給う

「法介解釈」
 衆生の一念は迷いの一念なので、生きる死ぬといった分別に惑わされ執着しています。
 ゆえに如来が世に転生し苦しみの衆生を救おうと分別・無分別の法を説いて衆生を導きます。

  • 法介
  • URL
  • 2016/10/11 (Tue) 18:25:55
 
[本文]①解釈-2
[現代語訳]
 夢のなかの善悪のことは、重なり合ってさまざまであり、無量無辺であるので、まず善のことについて上・中・下の三つを立てた。いわゆる声聞・縁覚・菩薩の三乗の法がこれである。この三乗の法を修行する人にまた上根・中根・下根の別があるので、三三九品となる。
このように説き終わって後に、上上品の根本の善を立てられたのを、上中下三三九品の善というのである。しかしこれらは、皆ことごとく九界生死の夢のなかの是非善悪である。今これを総じて邪見であり、外道とするのである。これは妙楽大師の摩訶止観捜要記の意である。

「法介解釈」
 声聞界の人には声聞乗(苦,集,滅,道の四諦)を説き、
 縁覚界の人には縁覚乗(十二因縁)を説いて
 菩薩界の人には菩薩乗(六度)をそれぞれ説きました。

  <四諦>
  苦諦(くたい)  - 一切は苦であるという真理
  集諦(じったい) - 苦には原因があるという真理
  滅諦(めったい) - 苦は滅するという真理
  道諦(どうたい) - 苦を滅する道があるという真理


  <十二因縁>
  1.無明(むみょう) - 過去世の無始の煩悩。煩悩の根本が無明なので代表名とした。
   明るくないこと。迷いの中にいること。
  2.行(ぎょう) - 志向作用。物事がそのようになる力=業
  3.識(しき) - 識別作用=好き嫌い、選別、差別の元
  4.名色(みょうしき) - 物質現象(肉体)と精神現象(心)。実際の形と、その名前
  5.六処(ろくしょ) - 六つの感覚器官。眼耳鼻舌身意
  6.触(そく、巴) - 六つの感覚器官に、それぞれの感受対象が触れること。外界との接触。
  7.受(じゅ) - 感受作用。六処、触による感受。
  8.愛(あい) - 渇愛。
  9.取(しゅ) - 執着。
  10.有(う) - 存在。生存。
  11.生(しょう) - 生まれること。
  12.老死(ろうし) - 老いと死。


  <六度(六波羅蜜)>
  布施・・・親切
  持戒・・・言行一致
  忍辱・・・忍耐
  精進・・・努力
  禅定・・・反省
  智慧・・・修養


 これらを説き終わってから、「上中下三三九品の善」を説いたのですが
 これらは所詮、分別の域を離れるに至らないので邪見であって外道義にあたります。
 というのが妙楽大師の見解です。
  • 法介
  • URL
  • 2016/10/11 (Tue) 19:08:34
 
[本文]①解釈-3
[現代語訳]
 このうえにまた、上上品の善心は本覚の寤(うつつ)の法理だから、これが善の根本であると説き聞かせたときに、夢の中ながら善悪を立て分ける悟りの力によって寤の本心の実相の法理を初めて聞知することができたのである。

  「法介解釈」
  「夢の中ながら善悪を立て分ける悟りの力」とは、縁起のことを言われていると思います。、
   そして「色即是空」の教えを衆生は初めて理解するに至りました。

[現代語訳]
 このとき仏は、「夢と寤との二つは、架空のことで実際のことと違いがあるけれども、心法はただ一つである。眠りの縁に値えば夢を見、眠りが去れば寤の心に戻るのであって、心法はただ一つである」と開会されたが、その開会の下地を作り置くための方便の教えである。これは別教の中道の法理にのっとっているのである。

  「法介解釈」
   夢と寤の意味は、「夢=衆生(生)」と「寤=仏(死)」であり
   「夢=分別」と「寤=無分別」の意味でもあります。
   「生と死」も「分別と無分別」も、心の一法です。

「妙は死 法は生なり 此の生死の二法が十界の当体なり」
と『生死一大事血脈抄』にありますとおり、
   この世に生を受ければ、分別から起こる様々な煩悩にまどわされ、
   死の世界に戻れば(無分別の世界)煩悩が消えて正常な心を取り戻すのです。
   どちらも心の一法です。
   
   別教で説かれている中道の法理(空観・仮観・中観)は、
   決して真実ではありません。

   「別教で説かれた中道の法理」とは、
   「但中の理」であるところの空観・仮観・中観の「一心三観」のことです。
  • 法介
  • URL
  • 2016/10/11 (Tue) 20:01:47
 
[本文]①解釈-4
[現代語訳]
 このゆえに、未だ十界互具・円融相即を顕していないので、成仏の人はいないのである。
このように三蔵教から別教に至るまで四十二年の間の八教は皆ことごとく方便の教えであり、
夢のなかの善悪を説いたものである。
ただしばらくの間、衆生を誘引するために用いられた支度・方便の教えなのである。


 [法介解釈]
 十界互具がまだ説かれていない別教においては、空・仮・中の円融もかなわないので、
 一心三観の中観は「但中の理」と呼ばれていて成仏はかないません。

 三蔵教から別教にいたるまでに説かれた教えは所詮、夢の中の善悪を説いた教えとありますが、
 ここでも大聖人様は「夢と寤」の喩えを用いていますが「夢の中」とは、

 夢=生の世界(有)
 寤=死の世界(空)

 であって、生の世界(有)である限り分別から抜けきらない方便の教えであるといわれています。


[現代語訳]
 この権教のなかにも、それぞれに皆ことごとく方便と真実があり、権実の法が欠けていないのである。
四教の一々にそれぞれ有門・空門・亦有亦空門・非有非空門の四門があって差別がないのである。
また言葉も同じであり、文字にも違いがない。
これによって、言葉に迷って権実の差別をわきまえないときを仏法が滅びるというのである。

  [法介解釈]
 「此の権教の中にも分分に皆悉く方便と真実と有り」とは、
  方便である一心三観の中にも真実があるといわれています。それは

  仮観=縁起の法門
  空観=色即是空
  中観=而二不二

  のそれぞれの教えです。

 「四教一一に各四門有つて差別有ること無し」とは、
  四教の一々にそれぞれ有門・空門・亦有亦空門・非有非空門の四門があります。

  蔵教(三蔵教)=有門    (但空の理)
  通教     =空門    (不但空の理) 
  別教     =亦有亦空門 (但中の理)
  円教     =非有非空門 (一念三千)

  四教の詳細は、http://www.geocities.jp/shoshu_newmon/syakuson_2.htm (日蓮正宗教学)

  四門について大聖人様は「御義口伝」の中で次のようにいわれています。

  [御義口伝]
  今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るを智慧(ちえ)とは云うなり、
  譬喩品(ひゆぼん)に云く「唯有一門(ゆいういちもん)」と門に於て
  有門(うもん)・空門(くうもん)・亦有亦空門(やくうやくくうもん)・
  非有非空門(ひうひくうもん)あるなり、
  有門は生なり  空門は死なり  亦有亦空門は生死一念なり  非有非空門は生に非ず死に非ず
  有門は題目の文字なり  空門は此の五字に万法を具足して一方にとどこうらざる義なり、
  亦有亦空門は五字に具足する本迹なり非有非空門は一部の意なり、
  此の内証は法華已前の二乗の智慧の及ばざる所なり、
                                   

  [上記御文の解釈]
  仏の智慧とは南無妙法蓮華経なのです。 
  法華経の譬喩品には唯一の門有りと書かれており、
  仏門にはいるには、
  有から入る有門と、
  万法は空であるという空から入る空門と、
  万法は有でもあり空でもあるというところから入るという門があり、
  また万法は有でもなければ空でもない、
  という有門に非ず空門に非ずという非有非空という門から入る道があります。

  この意味は有門とは「生」から入る門のことであり、
  これは一切が存在するという説一切有部から仏法に入ることを意味しています。

  空門から入るということは一切は空であるということから仏門に入ることを意味し
  これは「死」を意味する門です。
  亦有亦空門とは「生死は一念である」と知ることであり、
  非有非空門は「生に非ず死に非ず」、であり
  大聖人様の見方は

  有門とは南無妙法蓮華経であり、
  空門とは南無妙法蓮華経に備わる諸々の法であり、
  亦有亦空門は南無妙法蓮華経に備わる本迹の理(凡夫の一念と仏の一念)であり、
  非有非空門は南無妙法蓮華経の一部の心(妙法)である。 
  ここでいう妙法とは生と死であり、

  有=生
  空=死

  であり、非有非空とは生にあらず死にあらずということです。

  法華経が説かれた以前の教えの菩薩たちの智慧では到底南無妙法蓮華経を理解することはできないのです。

                                   [本文]②へつづく

  • 法介
  • URL
  • 2016/10/12 (Wed) 06:38:07
 
三世諸仏総勘文教相廃立-[本文]②
[本文]②(学会版御書 560ページ後ろから2行目から)
是の方便の教は唯穢土に有つて総じて浄土には無きなり法華経に云く「十方の仏土の中には 唯一乗の法のみ有つて二無く亦三も無し 仏の方便の説をば除く」已上、 故に知んぬ十方の仏土に無き方便の教を取つて 往生の行と為し十方の浄土に有る一乗の法をば之を嫌いて取らずして成仏す可き 道理有る可しや否や 一代の教主釈迦如来・一切経を説き勘文し給いて言く三世の諸仏 同様に一つ語一つ心に勘文し給える説法の儀式なれば 我も是くの如く一言も違わざる説教の次第なり云云、 方便品に云く「三世の諸仏の説法の儀式の如く我も今亦是くの如く無分別の法を説く」已上、 無分別の法とは一乗の妙法なり 善悪を簡ぶこと無く草木・樹林・山河・大地にも一微塵の中にも互に各十法界の法を具足す我が心の妙法蓮華経の一乗は十方の浄土に周ヘンして闕くること無し 十方の浄土の依報・正報の功徳荘厳は我が心の中に有つて 片時も離るること無き三身即一の本覚の如来にて 是の外には法無し此の一法計り十方の浄土に有りて余法有ること無し 故に無分別法と云う是なり、 此の一乗妙法の行をば取らずして全く浄土には無き方便の教を取つて成仏の行と為さんは迷いの中の迷いなり、 我仏に成りて後に穢土に立ち還りて 穢土の衆生を仏法界に入らしめんが為に次第に誘引して 方便の教を説くを化他の教とは云うなり、 故に権教と言い又方便とも云う化他の法門の有様大体略を存して斯くの如し。

[現代語訳]
 この方便の教えは、ただ穢土のみあって、浄土にはないのである。法華経方便品第二には「十方の仏土のなかには、ただ一乗の法のみがあって、二乗の法も三乗の法もない。仏の方便の説を除くのである」と説かれている。
 ゆえに十方の仏土にはない方便の教をとって往生の行とし、十方の浄土にある一乗の法を嫌い、それを取らないで成仏できる道理があるかどうかを知るべきである。
 一代聖教の教主である釈迦如来は、一切経を説き、それを勘文し、こう言われている。三世の諸仏が同様に、一つの言葉と一つの心で考えられた説法の儀式であるので、我もこのように三世の諸仏と一言も違わない説教の順序を踏んだのである、と。すなわち方便品にいわく「三世の諸仏の説法の儀式の如く、我も今亦是くの如く無分別の法を説く」と。
 無分別の法とは一乗の妙法である。善悪を分別することなく、草木にも、樹林にも、山河にも、大地にも、一微塵のなかにも、それぞれが十法界の法を具足している。我が心中の妙法蓮華経の一仏乗の法は十方の浄土にあまねく行き渡って、及ばないところはない。また十方の浄土の依報と正報との功徳にあふれた荘厳な姿は、我が心のなかに収まって瞬時も離れることがない。我が身は、そういう三身即一の本覚の如来であって、このほかには仏の法はないのである。この一法だけが十方の浄土にあって、他の法はない。これを無分別の法というのである。
 この一乗妙法の修行を選択しないで、全く浄土には無い方便の教をとって成仏の行とするのは迷いのなかの迷いである。
 自分が仏になって後に穢土に立ち還って、穢土の衆生を仏法界に入れさせるために次第に誘引して方便の教えを説いたのを化他の教というのである。
 それゆえに権教ともいい、方便ともいうのである。化他の法門のありさまは、略していえば大体このようなものである。

  • 法介
  • URL
  • 2016/10/13 (Thu) 03:00:05
 
[本文]②解釈-1
[現代語訳]
 この方便の教えは、ただ穢土(娑婆世界)のみあって、浄土(仏土)にはないのである。法華経方便品第二には「十方の仏土のなかには、ただ一乗の法のみがあって、二乗の法も三乗の法もない。仏の方便の説を除くのである」と説かれている。

 ゆえに十方の仏土にはない方便の教をとって往生の行とし、十方の浄土にある一乗の法を嫌い、それを取らないで成仏できる道理があるかどうかを知るべきである。

  「法介解釈」
  「一乗の法」とは、この世のすべてのものを悟りに導き、
   成仏させる唯一無二の教え。「法華経」をさします。

[現代語訳]
 一代聖教の教主である釈迦如来は、一切経を説き、それを勘文し、こう言われている。三世の諸仏が同様に、一つの言葉と一つの心で考えられた説法の儀式であるので、我もこのように三世の諸仏と一言も違わない説教の順序を踏んだのである、と。すなわち方便品にいわく「三世の諸仏の説法の儀式の如く、我も今亦是くの如く無分別の法を説く」と。

  「法介解釈」
   法華経が「無分別の法」として説かれていることが示されています。
   仏土にはない方便の教(分別法)は所詮、成仏の直道にあらず。
   いわゆる、「真諦と俗諦」の関係にあたります。

  「真諦と俗諦」
   道徳や法律、または社会・組織などにおける規律や教育、
   広くいえば、文化や政治・経済などのあらゆる現象、これらはすべて俗諦(分別法)です。

   いくら勉強して良い会社に入社し、出世して社会的に成功しようとも、
   どんなに医学が発達し、不治の病が治ろうとも、
   劇的な科学の進歩で生活の質が一気に向上しようとも、
   高度な政治学で国がうるおい、国民の豊かな暮らしが実現しようとも、
   俗諦は俗諦でしかありません。

   仏の悟りである真諦(無分別法)を学ばずして人間の人生苦の解決には至りません。

   どんなに俗諦を集めても真諦は生まれませんし、
   仏の真実の悟りである真諦を俗諦と同じ次元で語ることも
   邪なるものと正なるものとをごちゃ混ぜにしてしまう摧尊入卑の謗法になります。

   真諦とは、釈迦が「これから真実の教えを説く」といって説いた法華経であり、
   法華経で説かれている一念三千の法門に他なりません。

  • 法介
  • URL
  • 2016/10/13 (Thu) 03:02:55
 
[本文]②解釈-2
[本文]
  「無分別の法とは一乗の妙法なり
   善悪を簡ぶこと無く草木・樹林・山河・大地にも一微塵の中にも互に各十法界の法を具足す」

[法介解釈]
  無分別の法とは南無妙法蓮華経のことです。
  善も悪も分別することなく、草木にも、樹林にも、山河にも、大地にも、
  一微塵のなかにも、それぞれ十界の法を具足しています。

  この後に続く御文は誤って解釈されやすいので要注意です。

[本文]
  「我が心の妙法蓮華経の一乗は十方の浄土に周ヘンして闕(か)くること無し」

  紹介している現代語訳は、創価学会員さんのサイトで紹介されているものなので
  以下のような客観認識で解釈されています。

[現代語訳]
  「我が心中の妙法蓮華経の一仏乗の法は十方の浄土にあまねく行き渡って、及ばないところはない。」

  客観認識でというのは、客観的に「妙法蓮華経の一仏乗の法」が
  「十方の浄土にあまねく行き渡って」存在しているという認識です。

  法華経は客観ではなく主観を説かれていますので、正しい解釈は以下のようになると思います。

  自分から見える世界(十方の浄土)は、
  すべて妙法蓮華経の一仏乗の法(一念三千)から成り立っている訳で
  草木、樹林、山河、大地にも、一微塵のなかにも、
  それぞれが十法界の法を具足しているので
  そのそれぞれの十界の相が差別の相としてあらわれて見えているのです。

  そして次の[本文]に繋がっていきます。

[本文]
 「十方の浄土の依報・正報の功徳荘厳は我が心の中に有つて片時も離るること無き三身即一の本覚の如来にて是の外には法無し」

  自身から見る草木・樹林・山河・大地・一微塵に至るまでの十界互具の相(百界)は、
  大きいとか小さいとか綺麗とか汚いとか善とか悪とかの分別ではなく、
  それぞれがそれぞれの百界の相を起点として展開した因果の姿であり、
  その依報の中に身を置く我(正報)の心もまた一念三千であって
  それを悟った姿が三身即一の本覚の如来なのです。

[本文]
  「此の一法計り十方の浄土に有りて余法有ること無し故に無分別法と云う是なり」

  この心の一法(一念三千)だけが存在するのであって、それ以外の法はなにもありません。
  もちろん分別法もありません。だから無分別法というのです。


  • 法介
  • URL
  • 2016/10/13 (Thu) 03:23:09
 
三世諸仏総勘文教相廃立-[本文]③
[本文]③(学会版御書 561ページ12行目から)
二に自行の法とは是れ法華経八箇年の説なり、 是の経は寤の本心を説き給う唯衆生の思い習わせる夢中の心地なるが故に夢中の言語を借りて 寤の本心を訓る故に語は夢中の言語なれども 意は寤の本心を訓ゆ法華経の文と釈との意此くの如し、 之を明め知らずんば経の文と釈の文とに必ず迷う可きなり、 但し此の化他の夢中の法門も寤の本心に備われる徳用の法門なれば 夢中の教を取つて寤の心に摂むるが故に 四十二年の夢中の化他方便の法門も妙法蓮華経の寤の心に摂まりて 心の外には法無きなり此れを法華経の開会とは云うなり、 譬えば衆流を大海に納むるが如きなり仏の心法妙・衆生の心法妙と此の二妙を取つて 己心に摂むるが故に心の外に法無きなり 己心と心性と心体との三は己身の本覚の三身如来なり是を経に説いて云く[如是相応身如来如是性報身如来如是体法身如来]此れを三如是と云う、 此の三如是の本覚の如来は十方法界を身体と為し十方法界を心性と為し十方法界を相好と為す是の故に我が身は本覚三身如来の身体なり、 法界に周ヘンして一仏の徳用なれば一切の法は皆是仏法なりと説き給いし時其の座席に列りし諸の四衆・八部・畜生・外道等一人も漏れず皆悉く妄想の僻目・僻思・立所に散止して本覚の寤に還つて皆仏道を成ず、 仏は寤の人の如く衆生は夢見る人の如し 故に生死の虚夢を醒して本覚の寤に還るを即身成仏とも 平等大慧とも無分別法とも 皆成仏道とも云う只一つの法門なり、 十方の仏土は区に分れたりと雖も通じて法は一乗なり方便無きが故に無分別法なり、 十界の衆生は品品に異りと雖も 実相の理は一なるが故に無分別なり百界千如・三千世間の法門 殊なりと雖も 十界互具するが故に無分別なり、 夢と寤と虚と実と各別異なりと雖も一心の中の法なるが故に無分別なり、 過去と未来と現在とは三なりと雖も 一念の心中の理なれば無分別なり、

[現代語訳]
 第二の自行の法とは、八ヵ年の法華経の説のことである。この経は仏の寤の本心を説かれた経である。ただ衆生は夢のなかの心地に思い慣れているので、その夢のなかの言語を借りて寤の本心を教えたのである。したがって夢のなかの言語であるけれども、意は寤の本心を説き教えたのである。法華経の文とその釈の本意はこういうことであり、このことを明らかに知っていかなければ経の文と釈の文とに必ず迷うのである。
 ただし、この化他のために説いた夢のなかの法門も寤の本心に備わった徳用の法門であり、その夢のなかの教えをとって寤の本心に収めているのであるから、四十二年の夢のなかの化他方便の法門も妙法蓮華経の寤の心に収まって、妙法蓮華経の心の外には法はないのである。これを法華経の開会というのである。たとえば衆流を大海に納めるようなものである。
 仏の心法妙と衆生の心法妙と、この二妙を取って、ともに己心のなかに摂めるゆえに、心の外には法はないのである。己心と心性と心体との三つは、己身の本覚の三身如来である。このことを法華経方便品第二には「如是相応身如来如是性報身如来如是体法身如来」と説かれている。これを三如是というのである。
 この三如是の本覚の如来は十方法界を身体とし、十方法界を心性とし、十方法界を相好とするのである。このゆえに我が身は本覚三身如来の身体なのである。法界にあまねくいきわたり、しかもそれは一仏の徳用であるから一切の法は皆これ仏法なのである。と釈尊が説かれたとき、その座につらなっていた、もろもろの四衆・八部・畜生・外道等は一人も漏れずに、皆ことごとく妄想の僻目・僻思いが、たちごころに散り止んで本覚の寤に還って、皆仏道を成じたのである。
 仏は寤の人のようなものであり、衆生は夢を見ている人のようなものである。ゆえに生死にとらわれた虚妄の夢を覚まして本覚の寤に還るのを即身成仏とも平等大慧とも無分別法とも皆成仏道ともいうのであり、ただ一つの法門である。
 十方の仏土は、まちまちに分かれているけれども、法は通じて一乗の法であり、方便の教えがないゆえに無分別法である。十界の衆生はそれぞれ異なっているけれども、実相の理は一つであるゆえに無分別である。百界千如・三千世間の法門は異なっているけれども、 十界互具するゆえに無分別である。夢と寤と虚と実と各々別々で異なっていても、一心のなかの法であるゆえに無分別である。過去と未来と現在とは三つであるけれども、一念のなかの理なので無分別である。 
  • 法介
  • URL
  • 2016/10/13 (Thu) 04:11:56
 
[本文]③解釈-1
[現代語訳]③
 第二の自行の法とは、八ヵ年の法華経の説のことである。この経は仏の寤の本心を説かれた経である。ただ衆生は夢のなかの心地に思い慣れているので、その夢のなかの言語を借りて寤の本心を教えたのである。

[法介解釈]
   再度申し上げますが、ここでいう「夢のなか」とは「この世」のことで
  我々衆生が生きている娑婆世界のことです。
  そしてその娑婆世界で生きている衆生に
  「夢のなかの言語を借りて寤の本心を教えた」というのは、
  分別法によって作り上げられた我々が日常、使っている言葉を
  「夢のなかの言語」と言われているのです。

[現代語訳]③
したがって夢のなかの言語であるけれども、意は寤の本心を説き教えたのである。法華経の文とその釈の本意はこういうことであり、このことを明らかに知っていかなければ経の文と釈の文とに必ず迷うのである。

[法介解釈]
   人が心で感じる世界を主観といいます。
  その主観で感じ取った内容を人に伝えようと言葉にした時点で、
  主観では無く、客観になってしまいます。

  どういうことかと言いますと、
  みかんを食べて「美味しい」と感じたその「美味しい」は、
  言葉の意味に定義ずけられた客観法であるところの「美味しい」であって、
  万人に共通した「美味しい」という表現なのです。

  どのように「美味しい」のかが、個々人の主観の世界にあたりますが、
  どのように「美味しい」のかを具体的にのべていっても
  その具体的な表現も所詮、
  言葉の意味に定義ずけられた客観法であるところの表現でしかないのです。

  要するに、
  自分が主観で感じ取ったことを100%完璧に他人に伝える事など出来ないのです。
  
  ですから仏法は、「理解」ではなく「実践」していく中で
  自身が「感じ取っていく」実践主義であり体験主義なのです。

  あの智恵第一といわれた舎利弗ですら「信」をもって「悟り」に至ったと言われるのもここにあります。

  十界の生命の中で「声聞界」は、「声を聞く」と書いて「仏様の教えを聞く」の意です。
  仏様に教えを聞いて自分で実践していく中で様々な事を悟っていくのです。
  それが「縁覚界」です。

  「縁覚」とは修行者が縁にふれて自身の力で覚醒していく境涯です。
  「教えてください、教えてください」では「声聞」の壁はいつまでたっても破れないのです。
  教えを胸に刻んで自身の力で道を突き進んでこそ「縁覚」の境涯へと辿り着くのです。
  • 法介
  • URL
  • 2016/10/13 (Thu) 05:09:27
 
[本文]③解釈-2
[現代語訳]③
 ただし、この化他のために説いた夢のなかの法門も寤の本心に備わった徳用の法門であり、その夢のなかの教えをとって寤の本心に収めているのであるから、四十二年の夢のなかの化他方便の法門も妙法蓮華経の寤の心に収まって、妙法蓮華経の心の外には法はないのである。
これを法華経の開会というのである。たとえば衆流を大海に納めるようなものである。

この一節は、「法華経の開会」についての御文ですが
「開会」については、こちらを参照下さい。

http://tidouji.la.coocan.jp/yougo/4/449a.html 日蓮正宗の教学用語解説です。

この「開会」について少々述べさせて頂きます。
日蓮正宗および創価学会では、「法華経以前の教えは方便であり権教であるから学ぶ必要はない」と解釈し、
法華経以前に説かれた「無我・無自称」や「色即是空」、「一心三観」といった大事な教えをさほど重要視せず、
それが故に殆どの学会員さんや法華講員さんはこれらの教えの意味を習っていません。

ここでいわれている「法華経の開会」の意味は、

「四十二年の夢中の化他方便の法門も妙法蓮華経の寤の心に摂まりて 心の外には法無きなり此れを法華経の開会とは云うなり」

の御文を正しく理解すればおのずと答えが出てきます。
この御文の意味は、


小乗教で説かれた「無我・無自性」や般若心経で説かれた「色即是空」、天台が説いた「一心三観」
これらは全て「一念三千の法門」の中に集約されているという意味であって、
これらを学ぶ必要はないという意味では決してありません。

これらの大事な教えを学ばずして正しい「一念三千」の理解にはとうてい辿り着けません。

創価学会と宗門の両者が客観認識(分別法)の教学に陥ってしまっている最大の原因はここにあります。

大聖人様も『曾谷入道殿許御書』の中で、

 「此の大法を弘通せしむるの法には、必ず一代の聖教を安置し、八宗の章疏を習学すべし。
                        然れば則ち予所持の聖教多々之有りき。」

と、五時八教を必ず習学すべしと示されています。

  • 法介
  • URL
  • 2016/10/13 (Thu) 06:08:37
 
[本文]③解釈-3
[本文]
「仏の心法妙・衆生の心法妙と此の二妙を取つて 
 己心に摂(おさ)むるが故に心の外に法無きなり 
 己心と心性と心体との三は己身の本覚の三身如来なり
 是を経に説いて云く[如是相 応身如来 如是性 報身如来 如是体 法身如来]此れを三如是と云う、」 

[法介解釈]
  ここ↓で私が図解で説明している法身・報身・応身の三身如来と三如是の関係です。
  http://mh357.web.fc2.com/3-7-2.html


[本文]
「此の三如是の本覚の如来は十方法界を身体と為し 十方法界を心性と為し 十方法界を相好と為す 是の故に我が身は本覚三身如来の身体なり、」

[法介解釈]
  この三如是の本覚の如来は十方法界を当体とし、十方法界を心性(十如是=因果)とし、
  十方法界を相好(百界の相=縁起)とするのです。

  そのことを悟りえた時、我が身は本覚の三身如来の身体となるのです。

  ご本尊様と境智冥合させて頂くことで、自身から見た十方法界の依報の姿が、
  過去遠々劫(かこおんのんごう)以来積み重ねてきた様々な悪業・罪業による因果のあらわれであり、
  十方法界の正報としてあらわれたる百界の色相は「縁起の法門によって仮にあらわれたる姿に過ぎない」と、
  悟りえた自身の姿が本覚の三身如来の姿であるということです。

  この次にくる本文の言葉も間違って解釈されるところなので要注意です。


[本文]
「法界に周ヘンして一仏の徳用なれば一切の法は皆是仏法なりと説き給いし時」

  客観認識に陥ると、ここでいわれている「法界」のことを
  我々が認識するところの「空間」と勘違いしてしまうのです。

  だから「空間」(宇宙)に妙法が遍満していると思い込むのです。

  ここで大聖人様がいわれている「法界」とは、
  自身から見える「十方法界」であり自身をとりまく依報の姿なのです。

  法華経はあくまでも修行者の心の動きを命題にして説かれていますので
  宇宙の話など出てきません。

  そもそも「宇宙」というもの自体、人間が作り出した分別なのですから、
  無分別を説く妙法にそのような分別の要素が乱立して説かれるはずがないのです。

                              
  • 法介
  • URL
  • 2016/10/13 (Thu) 11:52:24
 
[本文]③解釈-4
[現代語訳] 
仏は悟りの人のようなものであり、衆生は夢を見ている人のようなものである。
ゆえに生死にとらわれた虚妄の夢を覚まして本覚の悟りに還るのを即身成仏とも平等大慧とも無分別法とも皆成仏道ともいうのであり、ただ一つの法門である。
十方の仏土は、まちまちに分かれているけれども、法は通じて一乗の法であり、方便の教えがないゆえに無分別法である。

[法介解釈]
  仏の世界には分別法は存在しないという訳ですから肉体(五陰世間)も存在しません。
  なぜなら五陰世間が様々な分別を生み出している根源な訳ですから、(正確には八識ですが)
  分別が存在しない無分別の世界に
  その根源である肉体(五陰世間)が存在するはずがありません。


  では、衆生世間と国土世間も仏土には存在しないのでしょうか?

  「第二章の2 無分別」のところで
    http://mh357.web.fc2.com/2-2.html
  三世間を分別法から無分別法に転換させる方法(三諦の円融)は紹介しました。

  しかしそれは我々衆生が住む娑婆世界での話であって
  仏様が住む仏土においての三世間の無分別法はどういったことなのかを考えてみましょう。

  まず肉体は存在しない(五陰世間)というのは想像しやすいと思います。
  肉体が存在しないのですから宙にういたり遠方から飛来したり姿を変えたりと
  どうにでもなるってことでしょう。

  雪山童子(釈迦の前世)のお話で帝釈天が恐ろしい羅刹(らせつ=鬼)に姿を変えたり
  虚空絵の儀式で如来が飛来してきたり地から地涌の菩薩が出現したり
  といった話もうなづけます。

  雪山童子と帝釈天
    http://kitaise.my.coocan.jp/ise33-0805.htm

  虚空絵の儀式
    http://www.winbell-7.com/roman/hisyo/hokekyo2.pdf


  次に仏土における衆生世間と国土世間について考えてみましょう。

  仏界の中の仏界(仏土)とはこの図でいうところの
    http://mh357.web.fc2.com/3-7-1.html
  「双遮双容」中諦の中の中諦にあたると思います。

  我々凡夫の仏界は人界の中の仏界なので同じ中諦であっても
  「双立空有」にあたる中諦の中の仮諦です。

  「双遮双容」と「双立空有」の違いは、

    双立空有=空であり有でもある            (凡夫の一念)理の一念三千
    双遮双容=空であり有でもある 空ではなく有でもない (仏の一念) 自の一念三千

  となります。

  ここで先に紹介しました「四門」ですが、

    「亦有亦空門は五字に具足する本迹なり 非有非空門は一部の意なり、」 
                            『御義口伝』
  の御文の意味するところは、
     亦有亦空(空であり有でもある)は五字(妙法蓮華経)に具足する本迹である。
     非有非空(空でなく有でもない)は妙法の一部である。
  な訳ですから、
  仏界の中の仏界は、
     非有非空であり亦有亦空でもある「双遮双容」
  ということになるかと思います。

  要するに

  「空であり有でもあるし、空でなく有でもない」のが「双遮双容」であり、
  それが仏界の中の仏界であって大聖人様があらわされた
  「曼荼羅ご本尊」様にあたると思います。

  「曼荼羅ご本尊」様は、「虚空絵の儀式」をあらわした姿ともいわれますが、
  虚空絵の儀式ではまちまち(区)に住む如来や菩薩たちが
  一斉に同じ場所に姿をあらわします。

  仏界の中の仏界には国土世間という分別も存在しないのですからこのように
  本来住む世界が異なる仏・菩薩たちが一斉に姿をあらわすのでしょう。

    http://sgiusasf.tripod.com/Japanese/butsubosatsu.htm



  次に衆生世間は、と考えるに

  この世界にまず衆生はいないでしょ^^

  仏・菩薩の世界ですから。

  しかし、そういって仏・菩薩と言っている時点で分別法ですので
  その分別すらも無い、完璧な無分別の世界が
  「曼荼羅ご本尊」様ではないでしょうか。

  諸々の仏・菩薩・如来・諸天善神・第六天魔王等が
  一幅の曼荼羅におさまった姿こそ
  衆生世間(この場合は仏・菩薩世間?)という分別も存在しない
  究極の無分別の法であり、事の一念三千の当体ではないのでしょうか。

  仏様の事の一念三千とは、このように三世間による分別すら存在しない
  我々凡夫の想像も及ばない世界なのだろうなと思います。


  方便品第二でお釈迦様が、

    止舎利弗。不須復説。所以者何。仏所成就。
    第一希有。難解之法。唯仏与仏。乃能究尽。

    止めとこう、舎利弗よ、もうこれ以上話すのを止めとこう。
    なぜなら、仏の習得したものは、最高に稀有で難しい法なのだ。
    ただ仏どうしがよく仏法の真実を見極めることができる。

  と言われてますように仏様にしか解らない世界、それが仏界の中の仏界なのでしょう。

                                
  • 法介
  • URL
  • 2016/10/14 (Fri) 10:56:59
 

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