御書関係
御法主日如上人猊下御説法、「三諦」と「三観」

 投稿者: 愚人 投稿日:2016年 9月30日(金)20時50分22秒 softbank126094239003.bbtec.net 通報 返信・引用
 早瀬日如上人の解説を紹介します。

 立正安国論正義顕揚七百五十年 記念大法要の砌

 御法主日如上人猊下御説法

 「三諦」とは諸法の真如実相の理を空仮中の三面から示したものであります。「三観」とは衆生が一切諸法を即、三諦なりと観ずること。この二者は能観・所観の関係にあり、「三諦」は境、「三観」は智にして、ただ法華経を信じて南無妙法蓮華経と唱うるときは、本地難思の境智の妙法を即、我らが一心に悟り顕し、本門寿量の当体の蓮華仏を顕すことができるのであります。
 これは、像法時代の天台は一心三観とて、空仮中の三諦を同時に体得するにあたり、己心にこれを観ることを説かれました(大白法第769号2面)
  • 法介
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  • 2016/11/21 (Mon) 11:02:08
 
日蓮聖人 無分別の大事を説く
日蓮聖人 無分別の大事を説く

 投稿者: 愚人

 御義口伝に云はく、自他の隔意を立て、彼は上慢の四衆、我は不軽と云ふ。不軽は善人、上慢は悪人と、善悪を立つるは無明なり。此に立って礼拝の行を成す時、善悪不二・邪正一如の南無妙法蓮華経と礼拝するなり云云。(平成新編御書一七八一頁)

■自他・善悪・邪正と分別するは無明なりとの教示。
 日蓮聖人の弟子檀那たる者は、自他不二・ 善悪不二・邪正不二と無分別の眼を以て観ることが大事であるとの教示と推する。
  • 法介
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  • 2016/11/21 (Mon) 11:03:40
 
この世は分別にして無分別
この世は分別にして無分別

 投稿者: 愚人

 御義口伝に云はく、法界に立って礼拝するなり。法界とは広きに非ず狭きに非ず。総じて法とは諸法なり。界とは境界なり。地獄界乃至仏界共に界を法る間、不軽菩薩は不軽菩薩の界に法り、上慢の四衆は四衆の界に法るなり。よって法界が法界を礼拝するなり。自他不二の礼拝なり。其の故は不軽菩薩の四衆を礼拝すれば、上慢の四衆所具の仏性も又不軽菩薩を礼拝するなり。鏡に向かって礼拝を成す時、浮かべる影又我を礼拝するなりは
(平成新編御書一七八二・一七八三頁)

 ■前半は分別を説き、後半は無分別を説く日蓮聖人。この世は分別にして無分別・無分別にして分別なる事を教えていると推する。
  • 法介
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  • 2016/11/21 (Mon) 11:04:45
 
総在一念抄
総在一念抄

[本文]

 然れば即ち我等も三千を具するが故に本有の仏体なり。よって無間地獄の衆生も三千を具し、妙覚の如来と一体にして差別無きなり。(中略)
 故に十界の草木等も一々に本有の三千の仏体にして、悪心悪法と云ひて捨つべき物之無く、善心善法と云の取るべき物之無し。故に今の経には此の理を説き顕はすが故に妙法蓮華経とは題するなり。妙法とは十界の草木等に三千を具す、一法として捨つべき物なきが故なり。蓮華とは此の理を悟る人は必ず仏と等しく蓮華の台に処し、蓮華を以て身を荘厳し、蓮華を以て国土をかざる故に云ふなり。知んぬ、此の身即ち三世の諸仏の体なり。
(平成新編御書一一四頁)
  • 法介
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  • 2016/11/21 (Mon) 11:06:15
 
三三九諦の記述
三三九諦の記述

[51] 日蓮の遺文に見る【三三九諦】
 投稿者: 愚人 投稿日:2016年 9月29日(木)19時45分23秒 softbank126094239169.bbtec.net 通報 返信・引用
 日蓮聖人の遺文『御講聞書』から、

 一 一切智地四字の事

 此の一切智地の四字に法華経一部八巻文々句々を収めたり。此の一切智地とは三諦一諦非三非一なり。三智に約すれば空智なり。さては三諦とは云ひ難し。然りといえども三諦一諦の中の空智なり。されば三諦に於て三々九箇の三諦あり。先づ空諦にて三諦を云ふ時は、空諦と呼び出すは仮諦、空諦なるは空諦なり。不二なるは中諦なり。三諦同じく此くの如く心得べし。所詮此の一切智地をば九諦法性と心得べきなり。九識法性には迷悟不二・凡聖一如なれば空と云ふなり。無分別智光を空と云ふなり。此の九識法性はいかなる処の法界を指すや。法界とは十界なり、十界即諸法なり。此の諸法の当体、本有の妙法蓮華経なり。此の重に迷ふ衆生の為に、一仏現じて分別説三するは、九識本法の都を立ち出でたるなり。さて終に本の九識に引入する、夫を法華経とは申すなり。一切智地とは是なり。一切智地は我等衆生の心法なり。心法即妙法なり。一切智地とは是なり。
(平成新編御書一八三九・一八四〇頁)

[以下法介追記分]

地をば無住之本と判ぜり、然るに凡有所説は約教を指し・皆令衆生は機縁を納るるなり、十界の衆生を指して切と云い凡有所説を指して、究竟非二故名一也と云えり、一とは三千大千世界・十方法界を云うなり、其の上に人畜等あるは地なり、記の七に云く、切を衆に訓ずと文、仍つて一切の二字に法界を尽せり、諸法は切なり実相は一なり、所詮・法界実相の妙体・照而常寂の一理にして十界三千・一法性に非ずと云う事なし是を一と説くなり、さて三千の諸法の己己に本分なれば切の義なり、然らば一は妙・切は法なり、妙法の二字・一切の二字なり、無住之本は妙の徳・立一切法は法の徳なり、一切智地とは南無妙法蓮華経是なり一切智地・即一念三千なり、今末法に入つて一切智地を弘通するは日蓮等の類い是なり、然るに一とは一念なり切とは三千なり、一心より松よ桜よと起るは切なり、是は心法に約する義なり、色法にては手足等は切なり、一身なるは一切なり、所詮色心の二法・一切智地にして南無妙法蓮華経なり云云。
一此の一切智地の四字 に法華経一部八巻文文句句を収めたり、此の一切智地とは三諦・一諦・非三非一なり、三智に約すれば空智なり、さては三諦とは云い難し、然りと雖も三諦・一諦の中の空智なり、されば三諦に於て三三九箇の三諦あり、先ず空諦にて三諦を云う時は空諦と呼出だすが仮諦・空諦なるは空諦なり・不二するは中道なり、三諦同じく此くの如く心得可きなり、所詮此の一切智地をば九識法性と心得可きなり、九識法性をば、迷悟不二・凡聖一如なれば空と云うなり、無分別智光を空と云うなり、此の九識法性とは、いかなる所の法界を指すや、法界とは十界なり、十界即諸法なり、此の諸法の当体・本有の妙法蓮華経なり、此の重に迷う衆生の為に、一仏現じて分別説三するは、九識本法の都を立出ずるなり、さて終に本の九識に引入する、夫れを法華経とは云うなり、一切智地とは是れなり、一切智地は我等衆生の心法なり心法即ち妙法なり一切智地とは是なり云云。
  • 法介
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  • 2016/11/21 (Mon) 11:10:26
 
凡夫の一念三千と仏の一念三千
凡夫の一念三千と仏の一念三千

 投稿者: 法介

[本文]

「本地難思の境智の妙法は迹仏等の思慮に及ばず、何に況んや菩薩・凡夫をや」
(立正観抄 531頁)

「元初の一念一法界より外に、更に六道四聖とて有るべからざるなり。所謂南無妙法蓮華経は三世一念なり」
(御義口伝 788頁)

「問ふ、一念三千の正しき証文如何。答ふ、次に申し出だすべし。此に於て二種有り。方便品に云はく『諸法実相所謂諸法如是相乃至欲令衆生開仏知見』等云云。底下の凡夫理性所具の一念三千か。寿量品に云はく『然我実成仏已来無量無辺』等云云。大覚世尊久遠実成の当初証得の一念三千なり」
(三大秘法抄 1023頁)
  • 法介
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  • 2016/11/21 (Mon) 11:11:38
 
観心本尊抄
観心本尊抄

 投稿者: 法介

[本文]

問うて曰く出処既に之を聞く観心の心如何、答えて曰く観心とは我が己心を観じて十法界を見る是を観心と云うなり、譬えば他人の六根を見ると雖も未だ自面の六根を見ざれば自具の六根を知らず明鏡に向うの時始めて自具の六根を見るが如し、設い諸経の中に処処に六道並びに四聖を載すと雖も法華経並びに天台大師所述の摩訶止観等の明鏡を見ざれば自具の十界百界千如一念三千を知らざるなり。
問うて云く法華経は何れの文ぞ天台の釈は如何、答えて曰く法華経第一方便品に云く「衆生をして仏知見を開かしめんと欲す」等云云是は九界所具の仏界なり、寿量品に云く「是くの如く我成仏してより已来甚大に久遠なり寿命無量阿僧祇劫常住にして滅せず諸の善男子我本菩薩の道を行じて成ぜし所の寿命今猶未だ尽きず復上の数に倍せり」等云云此の経文は仏界所具の九界なり、
  • 法介
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  • 2016/11/21 (Mon) 11:12:53
 
当体義抄
当体義抄

 投稿者: 法介

[本文]

問う妙法蓮華経とは其の体何物ぞや、答う十界の依正即ち妙法蓮華経の当体なり、問う若爾れば我等が如き一切衆生も妙法の全体なりと云わる可きか、答う勿論なり経に云く「所謂諸法乃至本末究竟等」云云、妙楽大師釈して云く「実相は必ず諸法諸法は必ず十如十如は必ず十界十界は必ず身土」と云云、天台云く「十如十界三千の諸法は今経の正体なるのみ」云云
(学会版 510頁1行目から4行目)

南岳大師の四安楽行に云く「大強精進経に云く衆生と如来と同共一法身にして清浄妙無比なるを妙法華経と称す
(学会版 511頁11行目から12行目)

「問うて云く仏何れの経の中に眼等の諸根を説いて名けて如来と為や、答えて云く大強精進経の中に衆生と如来と同じく共に一法身にして清浄妙無比なるを妙法蓮華経と称す」文、他経に有りと雖も下文顕れ已れば通じて引用することを得るなり、大強精進経の同共の二字に習い相伝するなり法華経に同共して信ずる者は妙経の体なり不同共の念仏者等は既に仏性法身如来に背くが故に妙経の体に非ざるなり、所詮妙法蓮華の当体とは法華経を信ずる日蓮が弟子檀那等の父母所生の肉身是なり、正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人は煩悩業苦の三道法身般若解脱の三徳と転じて三観三諦即一心に顕われ其の人の所住の処は常寂光土なり
(学会版 512頁5行目から11行目)

因果倶時不思議の一法之れ有り之を名けて妙法蓮華と為す此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して闕減無し之を修行する者は仏因仏果同時に之を得るなり、聖人此の法を師と為して修行覚道し給えば妙因妙果倶時に感得し給うが故に妙覚果満の如来と成り給いしなり、故に伝教大師云く「一心の妙法蓮華とは因華果台倶時に増長す三周各各当体譬喩有り、総じて一経に皆当体譬喩あり別して七譬三平等十無上の法門有りて皆当体蓮華有るなり、此の理を詮ずる教を名けて妙法蓮華経と為す」云云、
(学会版 513頁4行目から9行目)

又伝教大師釈して云く「問う法華経は何を以て体と為すや、答う諸法実相を以て体と為す」     
(学会版 514頁7行目から8行目)
  • 法介
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  • 2016/11/21 (Mon) 11:14:08
 
総勘文抄
総勘文抄

[本文]

故に心の外に善無く悪無し此の善と悪とを離るるを無記と云うなり、善悪無記此の外には心無く心の外には法無きなり故に善悪も浄穢も凡夫聖人も天地も大小も東西も南北も四維も上下も言語道断し心行所滅す心に分別して思い言い顕す言語なれば心の外には分別も無分別も無し、言と云うは心の思いを響かして声を顕すを云うなり凡夫は我が心に迷うて知らず覚らざるなり、仏は之を悟り顕わして神通と名くるなり神通とは神の一切の法に通じて礙無きなり、此の自在の神通は一切の有情の心にて有るなり故に狐狸も分分に通を現ずること皆心の神の分分の悟なり此の心の一法より国土世間も出来する事なり、一代聖教とは此の事を説きたるなり此れを八万四千の法蔵とは云うなり是れ皆悉く一人の身中の法門にて有るなり、然れば八万四千の法蔵は我身一人の日記文書なり、此の八万法蔵を我が心中に孕み持ち懐き持ちたり我が身中の心を以て仏と法と浄土とを我が身より外に思い願い求むるを迷いとは云うなり此の心が善悪の縁に値うて善悪の法をば造り出せるなり、華厳経に云く「心は工なる画師の種種の五陰を造るが如く一切世間の中に法として造らざること無し心の如く仏も亦爾なり仏の如く衆生も然なり三界唯一心なり心の外に別の法無し心仏及び衆生是の三差別無し」已上、無量義経に云く「無相不相の一法より無量義を出生す」已上、無相不相の一法とは一切衆生の一念の心是なり、文句に釈して云く「生滅無常の相無きが故に無相と云うなり二乗の有余無余の二つの涅槃の相を離るが故に不相と云うなり」云云、心の不思議を以て経論の詮要と為すなり、此の心を悟り知るを名けて如来と云う之を悟り知つて後は十界は我が身なり我が心なり我が形なり本覚の如来は我が身心なるが故なり之を知らざる時を名けて無明と為す無明は明かなること無しと読むなり、我が心の有様を明かに覚らざるなり、之を悟り知る時を名けて法性と云う、故に無明と法性とは一心の異名なり、名と言とは二なりと雖も心は只一つ心なり斯れに由つて無明をば断ず可からざるなり夢の心の無明なるを断ぜば寤の心を失う可きが故に総じて円教の意は一毫の惑をも断ぜず故に一切の法は皆是れ仏法なりと云うなり、法華経に云く「如是相[一切衆生の相好本覚の応身如来]如是性[一切衆生の心性本覚の報身如来]如是体[一切衆生の身体本覚の法身如来]」此の三如是より後の七如是出生して合して十如是と成れるなり、此の十如是は十法界なり、此の十法界は一人の心より出で八万四千の法門と成るなり、一人を手本として一切衆生平等なること是くの如し、三世の諸仏の総勘文にして御判慥かに印たる正本の文書なり仏の御判とは実相の一印なり印とは判の異名なり、余の一切の経には実相の印無ければ正本の文書に非ず全く実の仏無し実の仏無きが故に夢中の文書なり浄土に無きが故なり、十法界は十なれども十如是は一なり譬えば水中の月は無量なりと雖も虚空の月は一なるが如し、九法界の十如是は夢中の十如是なるが故に水中の月の如し仏法界の十如是は本覚の寤の十如是なれば虚空の月の如し、是の故に仏界の一つの十如是顕れぬれば九法界の十如是の水中の月の如きも一も闕減無く同時に皆顕れて体と用と一具にして一体の仏と成る、十法界を互に具足し平等なる十界の衆生なれば虚空の本月も水中の末月も一人の身中に具足して闕くること無し故に十如是は本末究竟して等しく差別無し、本とは衆生の十如是なり末とは諸仏の十如是なり諸仏は衆生の一念の心より顕れ給えば衆生は是れ本なり諸仏は是れ末なり、然るを経に云く「今此の三界は皆是我が有なり其の中の衆生は悉く是吾が子なり」と已上、仏成道の後に化他の為の故に迹の成道を唱えて生死の夢中にして本覚の寤を説き給うなり、智慧を父に譬え愚癡を子に譬えて是くの如く説き給えるなり、衆生は本覚の十如是なりと雖も一念の無明眠りの如く心を覆うて生死の夢に入つて本覚の理を忘れ髪筋を切る程に過去現在未来の三世の虚夢を見るなり、仏は寤の人の如くなれば生死の夢に入つて衆生を驚かし給える智慧は夢の中にて父母の如く夢の中なる我等は子息の如くなり、此の道理を以て悉是吾子と言い給うなり、此の理を思い解けば諸仏と我等とは本の故にも父子なり末の故にも父子なり父子の天性は本末是れ同じ、斯れに由つて己心と仏心とは異ならずと観ずるが故に生死の夢を覚まして本覚の寤に還えるを即身成仏と云うなり


【妙法とは宇宙の法則などではない】


「此の心の一法より国土世間も出来する事なり、一代聖教とは此の事を説きたるなり此れを八万四千の法蔵とは云うなり是れ皆悉く
一人の身中の法門にて有るなり、然れば八万四千の法蔵は我身一人の日記文書なり此の心が善悪の縁に値うて善悪の法をば造り出せるなり」

↑世界は一人称世界(主観)であり、その自分に見える世界は一の身中の法門(一念三千の法門)であると仰せです。



「此の三如是より後の七如是出生して合して十如是と成れるなり、
此の十如是は十法界なり、此の十法界は一人の心より出で八万四千の法門と成るなり」

↑世界は一人称世界(主観)であり、一念三千の法門から成り立っているとの御文である。



「十法界は十なれども十如是は一なり譬えば水中の月は無量なりと雖も虚空の月は一なるが如し、
 九法界の十如是は夢中の十如是なるが故に水中の月の如し仏法界の十如是は本覚の寤の十如是なれば虚空の月の如し、
 是の故に仏界の一つの十如是顕れぬれば九法界の十如是の水中の月の如きも一も闕減無く同時に皆顕れて
 体と用と一具にして一体の仏と成る」

↑凡夫の己心に仏界があるのではなく、仏様の仏界(虚空の月)と凡夫の九界(水中の月)とが境智冥合するのだと仰せです。



「此の理を思い解けば諸仏と我等とは本の故にも父子なり末の故にも父子なり父子の天性は本末是れ同じ、
 斯れに由つて己心と仏心とは異ならずと観ずるが故に生死の夢を覚まして本覚の寤に還えるを即身成仏と云うなり」

  • 法介
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  • 2016/11/21 (Mon) 11:17:07
 
十如是事
十如是事

 投稿者: 法介

[本文]

我が身が三身即一の本覚の如来にてありける事を今経に説いて云く如是相如是性如是体如是力如是作如是因如是縁如是果如是報如是本末究竟等文、初めに如是相とは我が身の色形に顕れたる相を云うなり是を応身如来とも又は解脱とも又は仮諦とも云うなり、次に如是性とは我が心性を云うなり是を報身如来とも又は般若とも又は空諦とも云うなり、三に如是体とは我が此の身体なり是を法身如来とも又は中道とも法性とも寂滅とも云うなり、されば此の三如是を三身如来とは云うなり此の三如是が三身如来にておはしましけるをよそに思ひへだてつるがはや我が身の上にてありけるなり、かく知りぬるを法華経をさとれる人とは申すなり此の三如是を本として是よりのこりの七つの如是はいでて十如是とは成りたるなり、此の十如是が百界にも千如にも三千世間にも成りたるなり、かくの如く多くの法門と成りて八万法蔵と云はるれどもすべて只一つの三諦の法にて三諦より外には法門なき事なり、其の故は百界と云うは仮諦なり千如と云うは空諦なり三千と云うは中諦なり空と仮と中とを三諦と云う事なれば百界千如三千世間まで多くの法門と成りたりと云へども唯一つの三諦にてある事なり、されば始の三如是の三諦と終の七如是の三諦とは唯一つの三諦にて始と終と我が一身の中の理にて唯一物にて不可思議なりければ本と末とは究竟して等しとは説き給へるなり、是を如是本末究竟等とは申したるなり、始の三如是を本とし終の七如是を末として十の如是にてあるは我が身の中の三諦にてあるなり、此の三諦を三身如来とも云へば我が心身より外には善悪に付けてかみすぢ計りの法もなき物をされば我が身が頓て三身即一の本覚の如来にてはありける事なり、是をよそに思うを衆生とも迷いとも凡夫とも云うなり、 是を我が身の上と知りぬるを如来とも覚とも聖人とも智者とも云うなり、かう解り明かに観ずれば此の身頓て今生の中に本覚の如来を顕はして即身成仏とはいはるるなり、譬えば春夏田を作りうへつれば秋冬は蔵に収めて心のままに用うるが如し春より秋をまつ程は久しき様なれども一年の内に待ち得るが如く此の覚に入つて仏を顕はす程は久しき様なれども一生の内に顕はして我が身が三身即一の仏となりぬるなり。


【三諦とは】

<抜粋>

身が三身即一の本覚の如来

如是相とは我が身の色形に顕れたる相を云うなり是を応身如来とも又は解脱とも又は仮諦

如是性とは我が心性を云うなり是を報身如来とも又は般若とも又は空諦

如是体とは我が此の身体なり是を法身如来とも又は中道

此の三如是が三身如来にておはしましけるをよそに思ひへだてつるがはや我が身の上にてありけるなり、
かく知りぬるを法華経をさとれる人とは申すなり
此の三如是を本として是よりのこりの七つの如是はいでて十如是とは成りたるなり、
此の十如是が百界にも千如にも三千世間にも成りたるなり、
かくの如く多くの法門と成りて八万法蔵と云はるれどもすべて只一つの三諦の法にて三諦より外には法門なき事なり、

其の故は 「百界と云うは仮諦なり 千如と云うは空諦なり 三千と云うは中諦なり」

空と仮と中とを三諦と云う事なれば百界千如三千世間まで多くの法門と成りたりと云へども唯一つの三諦にてある事なり

始の三如是を本とし終の七如是を末として十の如是にてあるは我が身の中の三諦にてあるなり、
此の三諦を三身如来とも云へば

「我が心身より外には善悪に付けてかみすぢ計りの法もなき物をされば我が身が頓て三身即一の本覚の如来にてはありける事なり、是をよそに思うを衆生とも迷いとも凡夫とも云うなり、」

是を我が身の上と知りぬるを如来とも覚とも聖人とも智者とも云うなり、
かう解り明かに観ずれば此の身頓て今生の中に本覚の如来を顕はして即身成仏とはいはるるなり

  • 法介
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  • 2016/11/21 (Mon) 11:19:06
 
一念三千法門
一念三千法門

 投稿者: 法介

[本文]

此の一念三千一心三観の法門は法華経の一の巻の十如是より起れり、文の心は百界千如三千世間云云、さて一心三観と申すは余宗は如是とあそばす是れ僻事にて二義かけたり天台南岳の御義を知らざる故なり、されば当宗には天台の所釈の如く三遍読に功徳まさる、第一に是相如と相性体力以下の十を如と云ふ如と云うは空の義なるが故に十法界皆空諦なり是を読み観ずる時は我が身即報身如来なり八万四千又は般若とも申す、第二に如是相是れ我が身の色形顕れたる相なり是れ皆仮なり相性体力以下の十なれば十法界皆仮諦と申して仮の義なり是を読み観ずる時は我が身即応身如来なり又は解脱とも申す、第三に相如是と云うは中道と申して仏の法身の形なり是を読み観ずる時は我が身即法身如来なり又は中道とも法性とも涅槃とも寂滅とも申す、此の三を法報応の三身とも空仮中の三諦とも法身般若解脱の三徳とも申す此の三身如来全く外になし我が身即三徳究竟の体にて三身即一身の本覚の仏なり、是をしるを如来とも聖人とも悟とも云う知らざるを凡夫とも衆生とも迷とも申す。
十界の衆生各互に十界を具足す合すれば百界なり百界に各各十如を具すれば千如なり、此の千如是に衆生世間国土世間五陰世間を具すれば三千なり、百界と顕れたる色相は皆総て仮の義なれば仮諦の一なり千如は総て空の義なれば空諦の一なり三千世間は総じて法身の義なれば中道の一なり、法門多しと雖も但三諦なり此の三諦を三身如来とも三徳究竟とも申すなり始の三如是は本覚の如来なり、終の七如是と一体にして無二無別なれば本末究竟等とは申すなり、本と申すは仏性末と申すは未顕の仏九界の名なり究竟等と申すは妙覚究竟の如来と理即の凡夫なる我等と差別無きを究竟等とも平等大慧の法華経とも申すなり、


【一念三千の法門とは】


此の一念三千一心三観の法門は法華経の一の巻の十如是より起れり

第一に是相如と相性体力以下の十を如と云ふ如と云うは空の義なるが故に十法界皆空諦なり

第二に如是相是れ我が身の色形顕れたる相なり是れ皆仮なり相性体力以下の十なれば十法界皆仮諦と申して仮の義なり

第三に相如是と云うは中道と申して仏の法身の形なり

此の三を法報応の三身とも空仮中の三諦とも法身般若解脱の三徳とも申す此の三身如来全く外になし我が身即三徳究竟の体にて三身即一身の本覚の仏なり


百界と顕れたる色相は皆総て仮の義なれば仮諦の一なり千如は総て空の義なれば空諦の一なり三千世間は総じて法身の義なれば中道の一なり、

法門多しと雖も但三諦なり此の三諦を三身如来とも三徳究竟とも申すなり

始の三如是は本覚の如来なり、終の七如是と一体にして無二無別なれば本末究竟等とは申すなり、

本と申すは仏性 末と申すは未顕の仏九界の名なり

究竟等と申すは妙覚究竟の如来と理即の凡夫なる我等と差別無きを究竟等とも平等大慧の法華経とも申すなり、

  • 法介
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  • 2016/11/21 (Mon) 11:20:52
 
ご本尊は一念三千の当体である
一念三千


[205] 法介さん
 投稿者: 沖浦克治 投稿日:2016年10月 7日(金)16時43分27秒 softbank126014113169.bbtec.net 通報 返信・引用
 仮諦が云々などは天台に任せて置いて良いのです。
 空化中の三諦などは私どもはどうでも良い事です。

 ご本尊をわが命の設計図だと信じ、自身がそのままで久遠元初の南無妙法蓮華経如来だとわかる。
 そして題目を唱え弘める。

 これだけで良いのですよ。



[206] 管理人様
 投稿者: 法介 投稿日:2016年10月 7日(金)16時54分35秒 p1139105-ipngn200808fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp 通報 返信・引用
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沖浦様

沖浦様も学会員でしかも戸田先生を師匠の一人と仰ぐのであれば、
戸田先生が大御本尊様の事を「一念三千様」とお呼びしてたのは御存知かと思います。
何故、御本尊様が一念三千なのか、
空・仮・中の三諦の理解なくしては正しい解釈に至らないのです。
だから、議論しているのです^^

沖浦様のご意見はご意見として受け止めさせて頂きます。



[207] 法介さん、今晩は
 投稿者: 沖浦克治 投稿日:2016年10月 7日(金)19時32分15秒 softbank126014113169.bbtec.net 通報 返信・引用
 ご本尊は一念三千の当体ではありません。
 仏像なんです。
 仏像は本体である仏を象ったもの。

 写真といいますでしょう。
 真を写しとるからですが、貴方や私の写真は貴方でも私でもありません。
 あくまでも私や貴方の写真です。
 西郷さんの銅像は、西郷さんご本人でない事が一目瞭然です。

 大聖人御図顕のご本尊は、仏そのものではないのです。
 仏を象った仏像なんです。
 では何を象ったのか?
 一念三千の当体である、私ども衆生己心の妙法です。

 この衆生己心の妙法を、南無妙法蓮華経と言います。
 その南無妙法蓮華経である、私どもの命を釈迦は虚空の宝塔に例えました。
 その虚空の宝塔を大聖人がそのまま写し取って、曼荼羅本尊として図顕なされました。

 ですので、御本尊は写真の様に、私どもの命を写しとったものです。
 仏とは私どもの命です。
 この点も御書に明々白々です。
 当然、御本尊は仏の当体でも、一念三千の当体でもありません。

 寛師はここに迷った。
 習い損ないなる所以です。
 大聖人は観心本尊抄で、ご自分の御図顕なさるご本尊に関して詳しく書かれておられます。
 その御書に明記されています。

 『末法に来入して始めて此の仏像出現せしむ可きか。』
 (如来滅後五五百歳始観心本尊抄)

 仏像だと仰せです。
 ご本尊を論じるなら、最初にここからがスタートなんですよ。



[208] 管理人様
 投稿者: 法介 投稿日:2016年10月 7日(金)20時50分4秒 p1139105-ipngn200808fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp 通報 返信・引用
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>ご本尊は一念三千の当体ではありません。
>仏像なんです。
(省略)
>当然、御本尊は仏の当体でも、一念三千の当体でもありません。

「一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり、
   当世の習いそこないの学者 ゆめにもしらざる法門なり」
                      (草木成仏口決)



[209] (無題)
 投稿者: 沖浦克治 投稿日:2016年10月 7日(金)21時03分4秒 softbank126014113169.bbtec.net 通報 返信・引用
 法介さん、

>一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり

 当体ならばわざわざふりすすぎたてる必要もございません。

 『爰に日蓮いかなる不思議にてや候らん竜樹天親等天台妙楽等だにも顕し給はざる大曼荼羅を末法二百余年の比はじめて法華弘通のはたじるしとして顕し奉るなり、是全く日蓮が自作にあらず多宝塔中の大牟尼世尊分身の諸仏すりかたぎ(摺形木)たる本尊なり、』
 (日女御前御返事)

 衆生己心の妙法である南無妙法蓮華経をふりすすいだり、すりかたげたりしたものが御本尊です。
 本体は末法の本仏即久遠の南無妙法蓮華経如来である、私共衆生の己心の妙法です。

 ちゃんと書いてあるじゃないですか。



[210] 管理人様
 投稿者: 法介 投稿日:2016年10月 7日(金)22時14分58秒 p1139105-ipngn200808fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp 通報 返信・引用 編集済
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>『末法に来入して始めて此の仏像出現せしむ可きか。』
> 仏像だと仰せです。

[原文]
 此の本門の肝心南無妙法蓮華経の五字に於ては仏猶文殊薬王等にも之を付属し給わず何に況や其の已外をや但地涌千界を召して八品を説いて之を付属し給う、

 其の本尊の為体本師の娑婆の上に宝塔空に居し塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏多宝仏釈尊の脇士上行等の四菩薩文殊弥勒等は四菩薩の眷属として末座に居し迹化他方の大小の諸菩薩は万民の大地に処して雲閣月卿を見るが如く十方の諸仏は大地の上に処し給う迹仏迹土を表する故なり、

 是くの如き本尊は在世五十余年に之れ無し八年の間にも但八品に限る、正像二千年の間は小乗の釈尊は迦葉阿難を脇士と為し権大乗並に涅槃法華経の迹門等の釈尊は文殊普賢等を以て脇士と為す此等の仏をば正像に造り画けども未だ寿量の仏有さず、末法に来入して始めて此の仏像出現せしむ可きか。
----------------------------------------------------------------------------
[現代語訳]
この本門の肝心である南無妙法蓮華経の五字については、仏(釈尊)は文殊師利菩薩や薬王菩薩らにさえも付嘱されなかった。ましてそれ以外の者に付嘱されるわけがない。ただ地涌千界の大菩薩を召し出して、涌出品第15から嘱累品第22までの8品を説いて、この弘通を付嘱されたのである。

 この南無妙法蓮華経の本尊のありさまを言えば、本師(久遠の本仏)が常住する娑婆世界の上に宝塔が空中に浮かび、その宝塔の中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏と多宝仏が並び、釈尊の脇士として上行らの地涌の四菩薩が並び、文殊菩薩や弥勒菩薩らは、この地涌の四菩薩の眷属として末座にいて、そのほかの迹化や他方の大小の諸菩薩は、万民が大地にあって雲閣や月卿をあおぎ見るようにして座し、十方から集まってきた分身の諸仏は大地の上にお座りになっている。これは迹仏・迹土を表しているからである。

 このような本尊は、釈尊の在世50余年の間にはまったくなかった。法華経が説かれた8年の間にも涌出品第15から嘱累品第22までのただ8品に限るのである。
 正法・像法二千年の間は、小乗教の釈尊は迦葉と阿難を脇士とし、権大乗教および涅槃経・法華経の迹門などの釈尊は文殊菩薩や普賢菩薩らを脇士としている。正法・像法時代には、これらの仏は造り画かれたが、いまだ寿量品の仏はいらっしゃらなかった。この(寿量品の)仏のすがたは、末法の時代に入ってはじめて、出現させるべきものだからだろうか。




どこに曼荼羅御本尊が仏像などと書かれていますか?
南無妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏と多宝仏が並び、釈尊の脇士として上行らの地涌の四菩薩が並ぶ
このような曼荼羅御本尊が今まであっただろうか、
末法の時代に入ってはじめて出現される仏の姿(曼荼羅御本尊)であると書かれていると思いますが。



[211] 管理人様
 投稿者: 法介 投稿日:2016年10月 7日(金)22時23分49秒 p1139105-ipngn200808fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp 通報 返信・引用 編集済
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『爰に日蓮いかなる不思議にてや候らん竜樹天親等天台妙楽等だにも顕し給はざる大曼荼羅を末法二百余年の比はじめて法華弘通のはたじるしとして顕し奉るなり、是全く日蓮が自作にあらず多宝塔中の大牟尼世尊分身の諸仏すりかたぎ(摺形木)たる本尊なり、』
------------------------------------------------------------------------------------------
[現代語訳]
 ここに、日蓮はどう不思議であろうか。正法時代の竜樹・天親等・像法時代の天台・妙楽等でさえ、顕わすことのなかった大曼荼羅を、末法にはいって二百余年を経たこの時に、初めて法華弘通の旗印として顕わしたのである。この大曼荼羅は、全く日蓮が勝手に作り出したものではない。法華経に出現した多宝塔中の釈迦牟尼仏、ならびに十方分身の諸仏の姿を、あたかも板木で摺りあらわした御本尊なのである。

>私共衆生の己心の妙法です。

どこにもそのような記述は見当たりませんが、どこに書かれているのですか?



[212] 管理人様
 投稿者: 法介 投稿日:2016年10月 7日(金)22時49分10秒 p1139105-ipngn200808fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp 通報 返信・引用
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これ以上反論し合うと法論になってしまいますので、

沖浦さんは、

>ご本尊は一念三千の当体ではありません。
>仏像なんです。

と思っておられると受け止めておきます。
考え方は自由ですから、そう思っておられても良いのではないでしょうか^^



[216] 法介さん、おはようございます
 投稿者: 沖浦克治 投稿日:2016年10月 8日(土)07時34分45秒 softbank126014113169.bbtec.net 通報 返信・引用
>>ご本尊は一念三千の当体ではありません。
 >仏像なんです。

>と思っておられると受け止めておきます。
考え方は自由ですから、そう思っておられても良いのではないでしょうか^^

 思うとか思わないとかの問題ではありません。
 ご本尊について縷々書かれた観心本尊抄で。
 その中で大聖人が御図顕される文字曼荼羅を、仏像!!と明記されておられる。
 ですので、私どもが拝むご本尊は仏像なのです。
 図顕されたご本人が云われておられます。
 これ以上の証拠はございません。

 すると、御本尊を一念三千の当体だとすることは自由ですが、それを証明するためには、

 仏像が一念三千の当体に成り得る。

 これを御書に基づいて証明せねばなりません。
 ですので、法論文も何も、まず御書に基づいてその点をキチンとしないと論になりません。

 衆生己心の妙法は御書にございます。

 『凡そ妙法蓮華経とは我等衆生の仏性と梵王帝釈等の仏性と舎利弗目連等の仏性と文殊弥勒等の仏性と三世の諸仏の解の妙法と一体不二なる理を妙法蓮華経と名けたるなり、故に一度妙法蓮華経と唱うれば一切の仏一切の法一切の菩薩一切の声聞一切の梵王帝釈閻魔法王日月衆星天神地神乃至地獄餓鬼畜生修羅人天一切衆生の心中の仏性を唯一音に喚び顕し奉る功徳無量無辺なり、我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて我が己心中の仏性南無妙法蓮華経とよびよばれて顕れ給う処を仏とは云うなり、』
 (法華初心成仏抄)

  • 法介
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  • 2016/11/21 (Mon) 11:27:40
 
日達上人講述・略解日興遺誡置文
【日達上人講述・略解日興遺誡置文】

 投稿者: 愚人

【日達上人・序】

宗祖日蓮大聖人滅後七百年、その門下は既に大聖人の仏法の正鵠を失ない、乱雑なる信仰と分派を形成している中に、独り我が日蓮正宗は大聖人の化法に於て化儀に於て、一糸の乱れもなく厳然として、そのまま正法を今日まで伝持して居ることは、実に二祖日興上人が大聖人に随身給仕して知らず知らずに大聖人の化儀を体得し、なお且つ大聖人の内証の御法門の付嘱を受け、それを厳格に師伝して金口嫡々に歴代の法主が相承して来た為めである。

日興上人は大聖人滅後七年にして、自ら別当たるべき身延山久遠寺を捨てざるを得なかった。その御心中は只だ大聖人の仏法を如何に正しく清く広宣流布の暁まで伝持するかにあったと推察申すのである。

そして富士に移られ大石の寺を建立し戒壇の大本尊を深く蔵して、広宣流布の時、富士戒壇の根拠とせられたのである。

そのことは宗祖大聖人の御本意であって、身延の御入山は大聖人の御本意ではない。「日本無雙の名山富士山に隠籠せんと欲すと雄も、檀那の請に依って今此の山に籠居す」云云(法華本門宗要抄)と仰せられている。

ことに「本門寺の戒壇の勅を申し請うて戒壇を建んと欲せば、すべからく富士山に築くべし」云云と同じ以下に仰せられているから、常時に大聖人の御心のまま働かれた、日興上人であるから、上人は身延を捨てて富士に戒壇建立をはげまれたことが伺われるのである。

その後、日興上人は大石寺に九年在住せられて、永仁六年、北山に御影堂を移され此処に三十六年在住せられたのである。

日興上人は、大石寺を戒壇の本拠としてそこに大本尊を安置し、弟子日目上人を置かれて之れを守護せしめ、自らは北山に更に檀林(学校)を設置して万年救護の為に弟子の教育に当られたのである。


さしも御壮健なる日興上人も晩年に及んだので、後々の為に元徳二年正月に犬石寺の番帳を定められ正慶元年に日目上人に大本尊を相伝し大石寺を管領せしめた。更に正慶二年一月十三日弟子等の為に遺戒置文二十六箇条を書き遺され、二月七日安祥として御入滅せられたのである。

此の嚢の二十六箇条によって大聖人御入滅より二祖日興上人御入滅に到る五十一年の間に大聖人門下の他の人々が如何に大聖人の仏法を破り、化儀を乱したかを知ることが出来ると同時に日興上人は如何に厳格に之れを守って後世に伝えられたかを知ることが出来るのである。

此の遺戒置文の御真書は北山本門寺に有ったことはたしかであるが今は現存せず、我が本山には日時上人の写本、日亨上人所蔵の天文五年八月保田の日我の写本、天文年中の日辰の写本等が現存している。今、遺戒置文を披見するのに、先ず最初に二十六箇条を定めた因縁を書かれ而して二十六箇条を条書きにしている。

その御文を略解すると、

[ 序文 ]
夫れ以れば末法弘通の恵日は極悪謗法の闇を照し、久遠寿量の妙風は伽耶始成の権門を吹き払う、於戯仏法に値うこと希にして喩を曇華の正蕋に仮り類を浮木の穴に比せん、尚以て足らざるものか、爰に我等宿縁深厚なるに依て幸に此の経に遇い奉ることを得たり、随って後学の為に条目を筆端に染むる事、偏えに広宣流布の金言を仰がんが為なり。

久遠の本仏たる日蓮大聖人が五濁悪世の末法の人々を救済する為に、始成正覚の権身を捨てて此の世に出現せられ、誹謗正法の不信者を開悟せしめ、末法不相応の権宗・権門を破折し給うことは、恰も太陽が諸の闇を照し赫々と輝き、栴檀の涼風が憂悩の熱気を祓い清浄の大地を作るが如くである。

「諸仏世に興出したもうこと懸遠にして値遇すること難し」と方便品にある如く、人々が正法に値うことは例えば三千年に一度咲くと云う優曇華の花に遇いがたく、又一眼の亀の浮木に会って其の穴に入り身を温めることは出来がたいが、それよりもっと値いがたいのである。

我々は過去世の縁が深く且つ厚い為に幸にも此の宗祖大聖人の妙法蓮華経に遇い奉ることが出来たのであります。そこで後世の門弟の為に二十六箇の条書をつくりその拠るべき所を定めたのは、唯だ宗祖大聖人の末法広宣流布のお言葉を信ずる故である。との趣旨を前置せられ、次に箇条を定められたのである。今の所に喩を曇華の蕋(ハナシベリ)に仮りとあるは、此の蕋とは蕊(ずい)であって此処では、はなと訓みます。
`

[01]
一、富士の立義柳も先師の御払通に違せざる事。
日興上人の末葉は皆な富士門流で、大石寺、北山本門寺、小泉久遠寺、下条妙蓮寺、西山本門寺、伊豆実成寺、保田妙本寺、京都要法寺等の門末を云うのである。

此の富士門流の宗義は少しも大聖人の御弘通せられた御法門に相違してはならぬと定められているのであって、此の時代に於ては日興上人以外の五老僧系は既に謗法になって大聖人の御法門に違反して居ったことを知ることが出来る。

[02]
一、五人の立義一一に先師の御弘通に違する事。
大聖人の御相承を承けない、日昭、日朗、日向、日頂、日持の五人の門流の宗義は大聖人の御法門に違反して居ることを明確に示されたのである。

今は富士門流に於ても下条妙蓮寺、保田妙本寺、西山本門寺は大石寺に合流したが、四寺の系統はかえって五人の門流の謗法に流入したことは悲しむべきことである。

[03]
一、御抄何れも偽書に擬し当門流を毀謗せん者これあるべし、若し加様の悪侶出来せば親近すべからざる事。
大聖人の滅後五人は直ちに師敵対の心を起し、「大聖人の御書はないもので、たとい少々あっても在家の人の為に仮名字を以て仏法の因縁を粗示したにすぎないと称し、大聖人の御書を偽書として日興上人が御書を講義するのを毀謗して、事実ある所の御書を紙にすきかえしたり、又は火に焼いたり(富士一跡門徒存知事)などとした。

依って日興上人は御書の後世に於て絶無する事を恐れられて、取り敢えず御書十大部を集録せられたのである。之れ御書集録の最初である。此の様に御書を偽書と称する風習は彼等は今日でも同様で、自宗に不利な御書は偽書と称している。かような謗法者には親近してはならぬと定められたのである。与同罪を恐れる故である。

[04]
一、偽書を造って御書と号し本迹一致の修行を致す者は師子身中の虫と心得べき書。
彼等五人の系統の人々は自分に都合の悪い御書は偽書と云いながら、今度は勝手に自分に都合のよい偽書を造って御書と偽称しているのである。その著名な例は日朗御譲状である。それには「迹に本無くんば本を顕すことを得ず、本に迹無ば何に依て迹を垂れん、本迹殊なりと雖も不思議一也」などと偽作して、大聖人の「本迹の相違は水火天地の違目なり云云、本迹を混合すれば水火を弁えざるものなり」云云、(治病大小権実違目九九六頁)の御金言に背いて本迹一致の修行する者で、実に彼等は城者破城の師子身中の虫と云うべきである。

[05]
一、謗法を呵責せずして遊戯雑談の化儀並に外書歌道を好むべからざる事。
末法は折伏正意であるから、自己の遊戯雑談や外典の書や和歌や唄の趣味・娯楽等は後にして、第一に謗法を呵責しなければならない。
,
大聖人は「仏法を学し謗法の者を責めずして徒らに遊戯雑談のみして明し暮さん者は法師の皮を着たる畜生なリ」(松野殿御返事)とお諌めになっている。広宣流布の時までは「我が門家は夜は眠りを断ち昼は暇を止めて之を案せよ」云云(富木殿御書)又「行学の二道をはげみ候べし、行学絶えなば仏法はあるべからず」云云(諸法実相抄)等と特に御教訓になって居る。

[06]
一、檀那の社参物詣を禁ずべし、何に況や其の器にして一見と称して謗法を致せる悪鬼乱入の寺社に詣ずべけんや返す返すも口惜しき次第なり、是れ全く己が義に非ず、経文御抄等に任す云云。
富士門流の信徒は神社、仏閣へ参詣をしてはいけない。又、信徒が見物と云ってもそれ等謗法の神社や仏閣へ参詣してはいけない。与同罪となるからである。

他宗の仏閣は勿論、謗法であるから、参詣しては堕地獄の根元であることは明白であるが神社もなぜいけないかと云うと大聖人は「此の国は謗法の土なれば守護の善神法味にうえて社をすて天に上り給へば社には悪鬼入りかはりて多くの人を導く、仏陀化をやめて寂光土へ帰り給へば堂塔寺社は徒に魔縁の栖と成りぬ、国の費、民の嘆きにていらかを並べたる計り也。是れ私の言にあらず経文にこれあり習ふべし」云々。(新池御書)と示されてある如く、魔縁の神社に参詣して魔に誑かされることは残念のことである。現今は神社は明らかに一宗派をなして居るので、本宗の信徒が他宗派へ参詣する謗法の愚を敢えてすべきではない。

[07]
一、器用の弟子に於ては師匠の諸事を許し擱き御抄以下の諸の聖教を教学すぺき事。
才能ある弟子に対しては、師匠は自分に仕える用事を許して十分に習学すべき時間を与えて、御書その他の教学を勉強
せしめなければならない。

大聖人は「仏法を習い極めんとおもはば、いとまあらずば叶うべからず、いとまあらんとをもはば父母・師匠・国主等に随いては叶うべからず是非につけて出離の道をわきまえへざらんほどは父母師匠等の心に随うべからず」云々。(報恩抄)と教えられて居るから、人の師となる者は大いに弟子教養に心掛けなければならない。

[08]
一、学問未練にして名聞名利の大衆は予が末流に叶うべからざる事。
学問が未だ十分完成しないのに名聞名利を思う僧は禿人トクニンであり、又狗犬の僧であって、日興上人の末弟となることは出来ない。

大聖人は「名聞名利の心を以て人にすぐれんと思うて今生をわたり衆生をたすけず父母をすくうべき心なき人を食法餓鬼とて法を食う餓鬼と申すなり」云云。(四条金吾殿御書)とも又「末世には狗犬の僧尼は恒沙の如しと仏は説かせ結いて候なり、文の意は末世の僧・比丘尼は名聞名利に著し上には袈裟衣を着たれば、形は僧・.比丘尼に似たれども、内心には邪見の剣を提げ」云云。(松野殿御返事)等と名聞名利を厳重に諌められている。

[09]
一、予が後代の徒衆等権実を弁えざるの間は父母師匠の恩を振り捨て出離証道の為に本寺に詣で学文すべき事。
日興上人の末弟たる者は、仏法の権教・実教の二教を明確に知り得ない間は、出世間法を極め報恩の大道を尽す為に、一時の父母師匠の恩愛を捨てて総本山に在勤して、大聖人の法門を勉強しなくてはならない。大聖人は「父母の家を出て出家の身となるは必ず父母をすくはんがためなり」云々(開目抄)と教えられている。

[10]
一、義道の落居無くして天台の学文すべからざる事。
義道とは、すじみちの正しき道、即ち大聖人の仏法。落居とは成就せること。大聖人の仏法たる富士の宗義を十分に勉強してから天台の学文をすべきことを教えられたのである。

大聖人は立正観抄に「当世天台の教法を習学する輩、多く観心修行を貴で法華本迹二門を捨つ」云々。とある如く大聖人当時も即ち止観の明静に囚われ、大聖人の法門には人々は信じがたかったのである。しかも大聖人滅後五老僧は天台沙門と称して居る。「五人一同に云く日蓮聖人の法門は天台宗なり、仍って公所に捧ぐる状に云く天台沙門と云云(富士一跡門徒存知事)故に日興上人門流以外は天台化しているので、彼等は大聖人の末流と云えない。後世の学衆はどこまでも大聖人の法門を学習して、信念が確固となってから、その後に於て天台の学問をなすべきである。それ以外の学問は更にその後にすべきである。

[11]
一、当門流に於ては御抄を心肝に染め極理を師伝して若し間あらば台家を聞くべき事。
大石寺門流は大聖人からの相伝の宗旨であるから、御書を十分に心に留め、その文底の法門は、歴代の法主が相承している法門の至極の理は師から教わり、かりにも己義をかまえてはならない。しかる後に天台の宗義聞くべきである。

此の箇条は前の箇条と同意であるが、要するに前条は総の義で此の条は別の義である。

[12]
一、論議講説等を好み自余を交ゆべからざる事。
大聖人の仏法をそのまま竪に論義し説法すべきであって、例えば神本説の如く学問研究などと称し自分勝手に説を立ててはならない、と諌められたのである。

後に日有上人は化儀抄に「一、当家には談義あるべからず、其の故は談義とは其文段を横に沙汰する故に智者の所作なリ、当宗は信の宗旨なる故に而るべからず、但竪に一宗の建立の様を一筋云ひ立るは説法なり、是をば当家にゆるすぺきなり愚者の聞く耳をるが故に云云」と明瞭に示されたのである。

[13]
一、未だ広宣流布せざる間は身命を捨てて随力弘通を致すべき事。
三大秘法の広宣流布は大聖人の御本懐で大聖人の末弟は唯だ身命を賭して折伏に従い広宣流布の大軍に加わるべきである。「法華経(南無妙法蓮華経)を強いて説き聞かすべし、信ぜん人は仏になるべし謗ぜん者は毒鼓の縁となって仏になるべきなり」云云(法華初心成仏抄)とあれば、末法の人々には強いて妙法蓮華経を説かなくてはならない。

大聖人は「身軽法重・死身弘法とのべて候ば身は軽ければ人は打ちはり悪むとも法は重ければ必ず弘まるべし」云云(乙御前御消息)と必ず広宣流布を示されているから大聖人の末弟たるもの力を尽くして妙法蓮華経を弘通しなければならない。

[14]
一、身軽法重の行者に於ては下劣の法師たりと雖も当如敬仏の道理に任せて信敬を致すべき事。
身軽法重・死身弘法の折伏の行者に対しては、設いその人の人格が余り感心出きなくても先輩諸師の如く敬わなくてはならない。

大聖人は「貴僧・高僧には依るべからず、賎しき者なりとも此の経の謂れを知りたらんものをば生身の如来のごとくに礼拝供養すべし、是れ経文なり」云々(新池御書)と教えられて居る。又、日有上人化儀抄に「仏の行体をなす人は師範たりとも礼儀を致すべし」とある。

此処に日興上人が敢えて下劣の法師と云われ、法を重んじて人格を重要視しないのは末法は「人を原タズヌれば五濁の生」であるが故である。

[15]
一、弘通の法師に於ては下輩たりと雖も老僧の思いを為すべき事。
大聖人の仏法を弘める為に不自惜身命の人は、その法臘が少くて後輩であっても高僧老僧の如く敬わなくてはならない。

[16]
一、下劣の者たりと雖も我より智勝れたる者をば仰いで師匠とすべき事。
前前条の身軽法重の行者の条は信の法師を敬うべきを示し、前条の弘通の法師の条は行の法師を敬うべきを示し、是の条は学の法師を敬うべきことを示されたので、たとい下劣下賎の人でも自分より智が勝れ学問がある人は師匠と敬って学ばなければならない。

大聖人は「何に賎者イヤシキモノなりとも少し我より勝れて智慧ある人には此経のいはれを問い尋ね給うべし」云云(松野殿御
返事)と学者を敬いその人々について学問すべきことを教えられている。

[17]
一、時の貫首たりと雖も仏法に相違して已義を構えば之を用うべからざる事。
時の貫主とは、その宗の頭、即ち現在の管長であり法主である。管長であるから宗門を運営するに当って、誰を採用し、任用してもよいのであるが、大聖人の仏法に違背して自分勝手な説を立て、しかも注意されても改めない人を用いてはならない。つまり、時の貫主の権限を示されているのである。

[18]
一、衆議たりと雄も仏法に相違有らば貫首之を擢くべき事。
この条は一般僧侶の横暴を誠められたのである。一般僧侶が協議して決定した事でも、もし大聖人の仏法に違背して居れば貫主は之の説を押し退けなければならない。今日の時代には一層大切なことであると思う。

[19]
衣の墨・黒くすべからざる事。
衣の色は太古に於て銅青色・.雑泥色・壊色との三色で、銅青色は銅から取り最上等の色で、壊色は木蘭の実をつぶして取った中等の色で、雑泥色はどぷに漬けた色で下等だが最も簡単に得られるのである。大聖人の御生活は常に御質素で、衣の色は雑泥色、今の薄墨色を用いられていたのである。昔は一般の僧侶も雑泥色(薄墨色)であった。

大聖人が常時薄墨色を用いられしことは四菩薩造立抄に「白小袖一・薄墨染衣一・同色の袈裟衣一帖・鷲目一貫文給ぴ候」云々とある。之れは大聖人が薄墨染の衣を常に召して居られたから富木殿が供養したのである。又、総本山所蔵の鏡の御影は薄墨色の衣である。日興上人は後代の為に衣は墨黒(黒色)くすべからずと明らかに示されたので、我が門流に於ては宗祖大聖人の用いられたそのままの色たる薄墨の衣、白五条若しくは同色の袈裟である。

[20]
一、直綴ヂキトツを著すべからざる事。
直綴とは本宗以外で使用している僧侶の一般の衣で、単衣と裳モとを直ちにとぢつけ、腰より以下に襞をつけた衣である。衣としては派手である。我が正宗の衣は衣の裾に裳を付けてあって衣としては略であり、之れを裳付衣と云う。日有上人化儀鈔に一里とも他行の時は十徳を著べし裳付衣のままは然るべからざるなり、裳付衣は勤行の衣なるが故に」とある。

大聖人は「かちん(褐色)の直綴をだにも著つればうち慢じて」云云(新池御書)と述べられてあって、かちんは褐色で即ち木蘭色壊色のこと、この褐色の腰に裳をつけた立派な衣を著れば慢心を起すと申して直綴は賛沢とされたのである。本宗は折伏の宗なるが故に衣も袈裟も質素簡単のものを用いたのである。

[21]
一、謗法と同座すべからず与同罪を恐るべき事。
謗法を折伏する宗でありながら謗法と同座すれば、謗法を認めることとなるから与同罪を蒙るのである。同座は禁物である。世間には付経フギンと云うこともあるが、之れも謗法と同座の内に入るから慎むべきである。

[22]
一、謗法の供養を請くべからざる事。

謗法の施を受けることは同じ与同罪である。本宗に賽銭箱を置かないのは此の金言を守るが故である。しかし世間一般を通じて見るときに恩田・悲田の違はあるが、あくまで直接に謗法の施を受け、謗法に施すことは慎まなければならない。

[23]
一、刀杖等に於ては仏法守護の為に之を許す、但し出仕の時節は帯すべからざるか、若し其れ大衆等に於ては之を許すべきかの事。

大聖人は立正安国論に涅槃経の御文を引いて「刀杖を持すと雖も我是等を説いて名けて持戒と曰わん、刀杖を持すと雖も命を断ずべからず」云云と説かれている。大聖人は常に珠数丸の名刀を御所持せられたと云われる。又北条弥源太からも太刀一振献ぜられて居った(此の太刀は大石寺に所蔵してあったが終戦の時米軍に納め現在所在不明)。

しかし刀の所持を許すも法要に出仕する時は持ってはいけない。但し一般の衆僧に於ては論外であると定められたのである。之の事は日有上人化儀抄に「出仕の時は太刀を一つ中間に持たすべし、折伏修業の化儀なる故なり。但礼盤ライハンに登る時、御霊供へ参る時は刀をぬいて傍に置くべきなり」云云とあつて此の点を明確に示されている。今は刀の所持は無いから此の条の心配はいらないことになる。

[24]
一、若輩たりと雖も高位の檀那より末座に居くべからざる事。
若僧、小僧でも大聖人の末弟として大法弘通の任にあるのであるから、高位名門の信者より下の座に居てはならない。若僧、小僧の中に一間浮提の座主日目上人の再誕が居るからである。

[25]
一、先師の如く予が化儀も聖僧たるべし、但し時の貫首或は習学の仁に於ては設い一旦の妖犯有りと難も衆徒に差し置くべき事。
日興上人の日常の御振舞は大聖人の如く聖者の御振舞で決して本門の大戒を犯すことはないのであるが、後学の人々は、一門を率いる貫主でも或は学問僧でも、たとい時に依って不邪婬戒を犯しても、そのまま僧侶としてよろしいの意である。日興上人の慈悲の偉大なる所が躍如として居るではないか。

[26]
一、難問答に巧みの行者に於ては先師の如く賞翫すべき事。

折伏の宗なるが故に他の宗と常に問答することを覚悟しなくてはならない。それ故に難かしい問答に巧みの僧侶は大切に敬わなければならない。大聖人は日目上人が二十三才の時に、二階堂伊勢入道の子、伊勢法印と問答して之を破ったので「さればこそ日蓮が見知りてこそ卿公をば出したれ」(御伝土代)と賞せられたと云うことである。現今に於ても難問答に巧みな人を尊重しなくてはならないと思うのである。

右の条目大略此の如し、万年救護の為に二十六箇条を置く、後代の学侶敢て疑惑を生ずること勿れ此の内一箇条に於ても犯す者は日興が末流に有るべからず、仍て定むる所の条条件の如し、
   元弘三年(癸酉)正月十三日    日興

以上二十六箇条を書き置かれ、後書として末法万年救護のために二十六箇条を遺し置くので後代の学問する僧侶等疑い迷うことなく先師日蓮大聖人の教を教の如く師伝しなくてはならない。若し二十六箇条の内一箇条でも違犯する人は日興の末流ではない。依って右の如く各条を定め置くと結ばれて、元弘三年(正慶二年)癸酉正月十三日 日興と書き遺されたのである。

要するに此の遺戒置文は大聖人の御書に少しも違わず、日興上人が大聖人に如何に常随給仕せられて居ったか知るこ
とが出来る。第一条の「富士の立義聊かも先師の御弘通に達せず」とある如く日興上人の御一生を通じて先師大聖人の仏法に少しも違背していないので、しかもその法灯を伝持し富士大石寺の門流(日蓮正宗)こそ大聖人の仏法を聊かも違背せず今日に相伝しているのである。
  • 法介
  • URL
  • 2016/11/21 (Mon) 11:43:10
 
伝教大師の言葉
[85] 伝教大師の言葉
 投稿者: 愚人 投稿日:2016年10月25日(火)02時52分44秒 om126186240117.7.openmobile.ne.jp 通報
 『伝述一心戒文』

 道は人を弘め、人は道を弘む。道心の中に衣食あり、衣食の中に道心なし。(刊/創元社刊 著/多田孝正 木内堯大 『最澄』112頁)

 怨みをもって怨みに報ゆれば、怨みは止まず。徳をもって怨みに報ゆれば、怨みはすなわち尽く。(『最澄』116頁)

 『叡山大師伝』

 我れ生まれてよりこのかた、口に麁言なく、手に苔罰(ちばつ)せず。いま我が同法、童子を打たずんば、我がために大恩なり。努めよ、努めよ。(『最澄』120頁)

 ■童子=叡山僧の生活の世話をし、清掃などをはじめとする雑務を行い、僧侶の活動を支える少年たち。



[86] 愚人さん
 投稿者: 法介 投稿日:2016年10月25日(火)05時14分59秒 p1157135-ipngn200808fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp 通報 編集済

>道心の中に衣食あり、衣食の中に道心なし。
>口に麁言なく、手に苔罰(ちばつ)せず。
の意味がいまいちつかめません・・・



[88] 法介氏
 投稿者: 愚人 投稿日:2016年10月25日(火)20時55分39秒 softbank126094237044.bbtec.net 通報
 『伝述一心戒文』

 道は人を弘め、人は道を弘む。道心の中に衣食あり、衣食の中に道心なし。

 【現代語訳】仏道が仏法を知る人を広め、またそうした仏法を知った人が仏道を広めるのです。仏道をもとめる心の中に衣食はあるのであって、衣食を求める中には道心はありません。

 (前略)
 しかし、服を着るため、食事を手に入れるために修行をしているのではありません。名利や欲望を満たすための修行は真実の修行ではないのです。
 僧侶の真摯に仏道を求める心と態度を見た人が、それに感動し、思わず修行生活を助けずにはいられないという気持ちになります。その時に初めて衣食は備わるのであって、最初から衣食をいただくためという気持ちで修行を実践していても、その態度は見透かされてしまい、支援してくれる人など現れません。(『最澄』112~114)


 『叡山大師伝』

 我れ生まれてよりこのかた、口に麁言なく、手に苔罰(ちばつ)せず。いま我が同法、童子を打たずんば、我がために大恩なり。努めよ、努めよ。

 【現代語訳】私はうまれてからずっと、荒々しい言葉を発したこともなければ、手に苔を持って人を打ったこともありません。私の仲間たちよ、童子をぶつようなことをしないでくれたら、私はこのうえなくありがたく思います。どうかくれぐれもそのように努めてもらいたい。(『最澄』120頁)



[91] 愚人さん
 投稿者: 法介 投稿日:2016年10月26日(水)06時31分20秒 p1157135-ipngn200808fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp 通報 編集済
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なるほどそういう意味なのですね。
解り易く書いて頂き、ありがとうございました。

「伝教大師の言葉」感銘致しました。
  • 法介
  • URL
  • 2016/12/01 (Thu) 08:54:39
 

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