牧口常三郎
 牧口常三郎氏は、昭和三年六月、東京・常在寺所属の直達講々頭であった三谷素啓氏の折伏によって、五十七歳で日蓮正宗に入信した(同じ年の秋、後の戸田城聖二代会長も、三谷氏の折伏で入信している)。

 牧口氏の入信動機について、柳田国男氏は、「貧困と、子供達を次々と病没させたことにあるのだろう」(『牧口君入信の動機』)と述べている。入信後の牧口氏は、昭和五年十一月に「創価教育学会」の名で『創価教育学体系』第一巻を発刊、翌六年三月には同『体系』第二巻を発刊して、この中で、以前から構想を暖めていた『価値論』を発表したのである。
 この『価値論』について、牧口氏は、後の獄中書簡の中で、

 「百年前及び其後の学者共が、望んで手を着けない『価値論』を私が著はし、而(し)か  
も上は法華経の信仰に結びつけ、下、数千人に実証したのを見て自分ながら驚いて居る、
これ故三障四魔が紛起するのは当然で経文通りです」

と自己評価している。すなわち、牧口氏にとっての『価値論』とは、哲学の最高峰にあたる″教″であり、これを″行″ずる実践形態として法華経の信仰を結び付けることにより、万人の生活上に『価値論』で説く価値(大善生活)が″証″される、それほどの『価値論』を説き顕わしたのだから、三障四魔が紛然と競い起こるのは当然、というのである。これでは、日蓮正宗の信仰は『価値論』のために利用されているようなもので、まったくの本末転倒という外はない。

 こうした異質な思想をもつ牧口氏は、当然のことながら、氏の教化親であり直達講の講頭であった三谷素啓氏と相容れなくなり、三谷氏との間で何回か激論を交わした末、牧口氏は三谷氏と絶交することとなる。その三谷氏は昭和七年に亡くなられたが、残された講員達の誰も、牧口氏を新講頭に推(お)したりすることもなく、そのまま直達講を自主解散してしまった。これにより、牧口氏はそれまでの同志達と袂を分かって、東京中野・歓喜寮(後の昭倫寺)へ参詣し始め、以後、歓喜寮を事実上の所属寺院とするようになった。

 当時の歓喜寮御住職は堀米泰栄尊師――後の六十五世日淳上人であられ、当初のうちこそ、牧口氏は上人の指導に従って信仰に励んでいくかのように見えたが、昭和十二年夏の創価教育学会発会式(麻布の料亭・菊水亭にて開催)をはさんで、にわかに上人に反抗しはじめた。それは、牧口氏が、「在家団体・創価学会」の設立を上人に願い出たところ、上人がこれに危惧を感じて許可されなかったため、やむなく牧口氏は、教育を研究していく団体という名目で「創価教育学会」を発会、この際の確執が上人に対する反抗の原因となった、といわれている(当時の僧侶・信徒の証言)。

 実際、『創価学会年表』によれば、牧口氏等は、この時期、それまで歓喜寮で開いていた会合をピタリと止めてしまっており、このことは上人との関係悪化を裏付けている。なおまた、古くからの信徒で直達講副講頭を務めていた竹尾清澄氏(故人)も、堀日亨上人のお話の中から伺ったこととして、

 「牧口氏は、所属寺院の歓喜寮主管・堀米泰栄師(後の日淳上人)と論議し、『もう貴僧の
指導は受けない』と、席を蹴って退去」          (竹尾清澄著『畑毛日記』)

した、という出来事を記録に残されているのである。
 さて、こうして、上人との関係が険悪化して以後、牧口氏は、所属寺院である歓喜寮に会員が近付くことを制止するようになり、これを破った者(三ツ矢孝氏・木村光雄氏等)に対して烈火のごとく叱りつけた。

 さらに牧口氏は、よほど日淳上人を逆恨みしたのであろう、会員達を使って、上人に対する誹謗・罵倒・吊し上げを行なったのである。その事実は、当時の会員の証言のほか、戸田理事長の獄中書簡にも、

 「堀米先生に、去年堀米先生を『そしった』罰をつくづく懺悔しておる、と話して下さい。 
『法の師をそしり』し罪を懺悔しつつ『永劫の過去を現身に見る』と言っております、と」                  (昭和十九年九月六日、妻あて)

とあって、牧口氏の一番弟子であった戸田理事長自らが、獄中で、日淳上人を誹謗した罰を身に感じて懺悔している、と述べていることからも明らかである。
 
こうして牧口氏の率いる学会は、所属寺院たる歓喜寮と信仰上の断絶を生じていった。そして、同時にそのことは、″本宗の信徒は全て各寺院住職のもとに所属して信仰に励む″ことが原則である日蓮正宗からも、疎遠になっていくことを意味していた。
 前出の、竹尾氏が日亨上人から伺った話の次下には、
 「本山宿坊理境坊住職の落合慈仁師とも別れ、牧口氏に率いられる創価教育学会は、ここで日蓮正宗と縁が切れ」
とまで述べられており、牧口氏等は、この時、信仰上では日蓮正宗とほぼ絶縁に近い状態になってしまったものと思われる。とはいえ、日蓮正宗は慈悲を旨とする宗である。そのような不遜(ふそん)な牧口一派に対しても、日淳上人は、信仰上、再起する道だけは残しておこう、と思し召され、牧口氏等にそのつもりがあれば元の所属・常在寺へ戻れるよう、手配なされたのである。


 このような状況の中で、創価教育学会に対する国家権力の弾圧が起こった。
 今日の学会では、このときの真相を歪め、好き放題に美化して、「牧口会長は、軍国主義に屈せず、徹底して天皇制や戦争に反対したため、弾圧を受けた」だとか、「宗門は国家神道に屈して謗法まみれとなったが、牧口会長は謗法厳誡の教えを守って神札を拒否し、そのために弾圧を受けた」などと宣伝しているが、それは全く事実と反している。

 まず、「牧口時代の学会の反戦性」ということについては、昭和十七年十二月三十一日発行の『大善生活実証録』(創価教育学会第五回総会報告)を見ると、なんと総会で「軍歌」が歌われているばかりか、西川理事の発表の中で、
 「いまや、皇国日本が北はアリューシャン群島方面より遙(はる)かに太平洋の真中を貫き、南はソロモン群島附近にまで及び、更に南洋諸島を経て、西は印度洋からビルマ支那大陸に、将又(はたまた)蒙彊(もうきょう)満州に至るの広大な戦域に亘(わた)り、赫々(かっかく)たる戦果を挙げ、真に聖戦の目的を完遂せんとして老若男女を問はず、第一線に立つ者も、銃後に在る者も、いまは恐らくが戦場精神によつて一丸となり、只管(ひたすら)に目的達成に邁進しつゝあることは、すでに皆様熟知されるところである」等と述べている。また、『人間革命』(妙悟空こと戸田城聖著の初版)によれば、このころ牧口氏は、

 「国家諌暁だね。陛下に広宣流布の事を申し上げなければ日本は勝たないよ。これを御本
山に秦請(しんせい)して、東京僧俗一体の上に国家諌暁をしなければ国はつぶれるよ。
並大抵ではない時に生まれ合わしたね」

等と教えていたのである。さらに牧口氏は、後の獄中書簡の中で、
 「洋三戦死ノ御文、(中略)病死ニアラズ、君国ノタメニ戦死ダケ名誉トアキラメテ唯ダ冥福ヲ祈ル」とも述べている。

 これらを見れば一目瞭然であろう。要するに牧口氏等は、当時の国民の大多数と同じく、「反戦・天皇制反対」などという意識は持ち合わせておらず、むしろ「皇国日本」を戦争に勝利させるために国家諌暁(国家を諌めさとすこと)広宣流布を行なおうとしていたのである。

 また次に「牧口氏の謗法厳誡」ということについても、牧口氏自ら謗法の靖国神社へ参拝していたばかりか、牧口氏が天照大神の神札を拒否した理由も、「天照大神等の諸神は現人神(あらひとがみ)たる天皇の身に一元的に凝集されており、その他に神札を祀(まつ)れば二元論となって矛盾を生ずる」という、牧口氏独自の神道観に基づくものにすぎなかった。

 つまり牧口氏は、日蓮正宗の「謗法厳誠」の信条を固く守り通した、というよりは、学者でもあった氏自身の神社観・神道観を、自ら真理と信じて頑固に貫いた、というのが実際だったのである。



 さて、牧口氏は、「皇国日本」を戦争に勝たせるため、強く国家諌暁を主張するようになり、併(あわ)せて、氏独自の神道観によって神札焼却を強調した。これによって創価教育学会は、治安を乱す恐れありとして、官憲から厳しくマークされるところとなったのである。

 昭和十八年六月五日、東京・中野の一学会員が、近所の人の子供が死んだのを、頭から「罰だ」と決めつけて折伏しようとしたことで、怒った相手から訴えられ、特高警察に逮捕・拘留されるという事件が起きた。特高では、この事件を機に、かねてマークしてきた創価教育学会を一気に壊滅(かいめつ)せしめる意志決定をし、逮捕した学会員を厳しく取り調べて、学会弾圧の「罪状」を作成にかかったのである。まさに、学会弾圧は秒読みの段階に入った、といってよい。

 このような事態に、もっとも困惑されたのは日蓮正宗宗門であっただろう。なにしろ、学会が、いかに信仰的には絶縁一歩手前の状態とはいえ、形の上ではいまだ日蓮正宗信徒の集まりという立場をとっている以上、弾圧は日蓮正宗をも巻き込んで起こる可能性があるのだから。

 そこで総本山大石寺では、六月二十日、牧口・戸田両氏を呼び、注意を与えることとなった。当日その場には、大学匠として名高い御隠尊日亨上人と六十二世日恭上人の両上人が立ち会われ、庶務部長・渡辺慈海尊師より、牧口・戸田両氏に対し「伊勢の大麻を焼却する等の国禁に触れぬよう」注意がなされ、意外にも、牧口氏もこれに素直に従ったことが、日亨上人の御允可された記録(『富士宗学要集』第九巻四三一頁)に記されている。

 このときの宗門の注意は、非常事態下においては、必ずしも神札を焼却しなくとも、祀って拝んだりしなければ、一時、許容されるであろう、との判断(むろん平常時にまで無制限に適用されるものではない)の上から、これ以上、いたずらに当局を刺激して無用な弾圧を引き起こさぬように、との配慮でなされたものであった。

 今日、これを理解しえず、何としても宗門を「謗法容認」と罵(ののし)ろうとする池田教の狂信者も多いが、要するに仏法においては、「随方毘尼(ずいほうびに)」「四悉檀(ししつだん)」等といって、やむなき時代性や地域性に応じて、暫時、法義に違背しないギリギリの範囲内で、その言動を緩和(かんわ)することが許容されているのである。さらに付け加えておけば、大聖人の御書中には、″比叡山延暦寺で法然の撰択集の版木を焼却した″等の御記述はあるものの、″いかなる場合であれ謗法の物は焼却処分しなければならない″等の御教示は存在していない。それでも、なお、このときの宗門の判断をさして、「謗法容認」だなどと罵る輩は、もはや言葉も道理も通じない最悪の狂信者、と断ずるほかなかろう。

 ともあれ、大石寺より下山した牧口・戸田両氏は、応急の対応策を講じた。それが、六月二十五日付で学会内に出された、戸田理事長名での「通牒(つうちょう)」だったのである。この通牒についても、今日の学会では、「折りたたんで保管されていたにしては、左右の虫喰い状態が対称ではないから変だ」とか「通諜の『牒』の宇が間違っているから変だ」等と難クセを付け、結局、「この通牒は昭和五十二年頃に偽造された贋作(がんさく)であり、その証拠に、コピーだけが出廻っていて、原本が出てこない」といって、その存在を全面否定している。

 なるほど、当時の日蓮正宗宗門を「謗法容認」呼ばわりするためには、このような通牒があっては何とも不都合なのであろう。しかし、そうした不真面目(ふまじめ)な似非(えせ)学者達にはお気の毒だが、この戸田理事長名の通牒は本物である(それも複数の現存が確認されている)。

 紙面の関係上、その詳しい検証は次の機会に譲ることにするけれども、ここでは、やはり実物確認をしたフリージャーナリストの溝口敦氏が、次のように述べていることだけを紹介しておこう。

 「今回の取材で初めて確認したのだが、この通牒は真物である。もともとの出所は稲葉荘
氏(学会の初代総務・稲葉伊之助氏の子息)で、稲葉氏は同家の地下室に収蔵していたため、文書は湿気で周辺部がボロボロになった。現在、同文書は同大同形の紙で裏打ちされ、たしかに畳(たた)まれて保存されているが、畳まれたときの破損状況は理にかなって作為はあり得ない。」

 ともあれ、こうして通牒は発せられたが、官憲の側では創価教育学会壊滅の方針で罪状を作り上げてしまっていたから、「会長の応急策もすでに遅し」(『富士宗学要集』前出同頁)、七月六日、牧口氏は旅行先の伊豆で逮捕され、続いて戸田理事長ほか二十一名の幹部が相次ぎ逮捕されたのである。後に堀日亨上人は、この戦時下の学会弾圧事件を、「富士宗学要集』の法難編に「第十三章・昭和度の法難」として加えられているが、同法難編の冒頭の文に、

 「顧(かえり)みるに法難の起こる時、必ず、外(宗外)に反対宗門の針小棒大告発あり
て其の端を発し、内(宗内)に世相を無視して宗熱に突喊する似非信行の門徒ありて、(内外の)両面より官憲の横暴を徴発(ちょうはつ)するの傾き多し。本篇に列する十余章(の法難も)皆、然らざるはなし」        (『富士宗学要集』第九巻二四七頁)

と指摘されている。
 まさに、学会弾圧は、国家神道中心のファシズムが世を支配している異常な状況下で、『世相を無視して宗熱に突喊する、似非信行の」言動に走った牧口氏以下学会員達の行きすぎた言動(「神札焼却」の強調や、四悉檀を無視した強引な罰論等)が、いたずらに招き寄せた弾圧であった、というほかはない。
 少々酷(こく)な言い方をすれば、自業自得の謗(そし)りは免れない、ということである。



さて、弾圧時の牧□氏の信仰の中身はどうであったか、というと、ここに驚くべき資料が存在している。それは、逮捕後の牧口氏に対する特高警察の尋問調書である。
その中で牧□氏は、

 「私は正式の僧籍を持つことは嫌いであります。僧籍を得て寺を所有する事になれば、従って日蓮正宗の純教義的な形に嵌(は)まった行動しかできません。私の価値創造論をお寺に於て宣伝説教する訳には参りませんので、私は矢張(やは)り在家の形で日蓮正宗の信仰理念に価値論を採(と)り入れた処に私の価値がある訳で、此(ここ)に創価教育学会の特異性があるのであります」

として、純然たる日蓮正宗の教義にそった修行はしたくない(言い換えれば、日蓮正宗の
教義を自分流に曲げていきたい、ということ)、また、日蓮正宗の信仰を価値論と結びつけ
るところにこそ学会の特異性がある、と述べているのである。
 
この牧□氏の主張には、さすが未入信の検事すらも不審を感じたらしく、

 「創価教育学会の信仰理念の依拠(いきょ)するところは、日蓮正宗に相違なきや?」

との質問をしている。これに対し牧口氏は、

 「会員は悉(ことごと)く日蓮正宗の信者として、常在寺、歓喜寮、砂町教会、本行寺において授戒して居りますが、創価教育学会其(その)ものは前に申上げた通り日蓮正宗の信仰に私の価値創造論を採り入れた処の立派な一個の在家的信仰団体であります」

と答え、重ねて、
「学会は飽迄(あくまで)も日蓮正宗の信仰を私の価値論と結び付ける処に特巽性があるのであります」と強調しているのである。要するに牧口氏は、正宗の信仰を自信の価値諭に結び付けるところに、日蓮正宗とは大いに異なる学会の特異性がある、として、学会そのものを一個の独自な在家宗教団体として意義付けていたのである。

これでは、日蓮正宗は学会を成立させるために利用されていただけであり、もし、この弾圧がなかったならば、行き着くところ、学会は実質的に牧□教となっていたことは間違いない。また、これを見るならば、今日の池田創価学会が、長い間、日蓮正宗との二重形態をとりつつ、あくまでも日蓮正宗とは異質の新在家教団(池田教)を志向してきた原体質――、それは、すでに初代会長・牧口氏の行き方の中に萌芽(ほうが)していた、といわざるをえないのである。
 
結局、投獄された牧口氏は、一年有半を経た昭利十九年十一月十八日、獄中に死去し、その一生の幕を閉じた。そして、牧口氏の一番弟子であった戸田理事長は、翌年七月、釈放されたが、創価教育学会は半ば壊滅同然の状態となっていた。こうして、学会に対する官憲の弾圧は終わった―

が、しかし、牧口氏の中に根付いていた異流義思想の実態や、日淳上人に対する誹謗と背反、偏(かたよ)った布教の在り方等々を知るとき、これを、純然たる日蓮正宗信仰を貫いた結果の法難、などと呼ぶことは、とうていできえない。『佐渡御書』には、

「善戒を笑へは国土の民となり主難に値ふ。是は常の因果の定まれる法なり。日蓮は此の因果にはあらず。法華経の行者を過去に軽易(きょうい)せし故に、法華経は月と月とを並べ、星と星とをつらね、華山(かざん)に華山をかさね、玉と玉とをつらねたるが如くなる御経を、或(あるい)は上げ或は下(くだ)して嘲弄★(ちょうろう)せし故に、此(こ)の八種の大難に値へるなり」         (御書五八二頁)

と仰せられ、投獄されたりするのは法華経を持つ人を誹謗した罪、と明かされているが、獄中にあっての戸田理事長は、この御金言を厳しく我が身に引き当てて読まれたのであろう。
 
「堀米先生に、去年堀米先生を『そしった』罰をつくづく懺悔(さんげ)しておる、と話して下さい。『法の師をそしり』し罪を懺悔しつつ『永劫の過去を現身にみる』と言っております、と」                  (戸田城聖著「獄中書簡』)

と述べて、僧誹謗の重罪を懺悔し、さらに牧□氏が獄死してしまったことについては、やや曖昧(あいまい)に、

 「牧口先生の先業の法華経誹謗の罪は深く、仏勅のほどはきびしかったのでありましょう」                  (『創価学会の歴史と確信』)

と述べている。
仏法の因果の厳しさ、不思議さに、慄然(りつぜん)とさせられるではないか。また、これら獄中書簡等を見るかぎり、ひとり戸田理事長だけは、師たる牧□氏の謗法に気付いていたものと思われる。現に、出獄の二日後(二十年七月五日)、戸田理事長は

 「足を引きずりながら歓喜寮を訪ね、日淳上人に対して『申し訳ありませんでした。二年間、牢で勉強して、自分の間違っていたことがわかりました』といって平身低頭、深くお詫び申し上げ、さらに『これからは何もかも、お任せいたしますので、よろしく頼みます』」       (法照寺・石井栄純尊師が日淳上人夫人より伺った事実)

と、固くお誓いしたという。
さらに戸田理事長は、二代会長として学会再建に着手したが、まず牧口氏の根本的誤りを払拭(ふっしょく)すること(それも、師たる牧口氏の遺徳を傷付けることなく、むしろ顕彰しながら行なう)に心を砕いた。その事実は、若かりし頃の池田氏が、『人間革命』第一巻の中に、次のように描写してしまったことからも明らかである。

  牧ロの価値論から入った、大善生活を思うとき、そこには、彼独特の、倫理的臭味を帯びてくる。
  さらに、大善生活の実践のために、大御本尊を仰ぐ時、大御本尊は、価値論の範疇(はんちゅう)に入ることになってしまう。
  ―ここに摧尊入卑(さいそんにゅうひ)のきらいが影となって射(さ)して来るよう
だ。
  戸田は、出獄以来、ひとまず価値論を引っ込めた。
  そして、南無妙法蓮華経そのもの自体から出発したのである。それは、幾多の苦難の歳月を経て、身をもって体験した確信からであった。
  彼は、価値論を、現代哲学の最高峰であるとは思っていた。……しかし、大聖人の大生命哲理からするなちば、時に『九重の劣』とずら思えた。



かくて戸田会長は、数年間にもわたる苦心惨憺(さんたん)の結果、牧□氏の「摧尊入卑」という根本的な謗法を学会の中から取り除かれた。そして、壊滅状態であった学会を、勤行・教学・登山・折伏・御供養等の徹底指導によって再建、わずか十年のうちに七十五万世帯を突破せしめられたのである。

その戸田会長の根底を成していたものは、先代・牧□氏と異なり、日蓮正宗に対する絶対的な信心の赤誠であった。ただ、その豪放磊落(らいらく)な性格のゆえに、一般常識人から非難されるような行動や、細かい点で行きすぎた面などはあったとされるが、あたかも大水が小火を呑(の)み込み、太陽の光が星の光を隠してしまうように、戸田会長のあまりにも強く純粋な正宗に対する信心が、全ての瑕瑾(かきん)を吹き飛ばしてしまっていた、といえよう。
以下、戸田会長の珠玉の指導を引く。


 「良き法と、良き師と、良き檀那(だんな)との三つが、そろわなければだめだ。南無妙法蓮華経、これは良き法に決まっている。大御本尊様は良き法なのです。また御法主上人は唯授一人、六十四代の間を、私どもに、もったいなくも師匠として大聖人様そのままの御内証を伝えておられるのです。ですから、御法主上人猊下を通して大御本尊様を拝しますれば、必ず功徳が出てくる。ただ良き檀那として、その代表として、その位置にすわれたことを、私は、ひじょうに光栄とするものであります。」
                   (昭和三十年十二月十三日関西本部入仏落慶式)

 「学会は猊座のことには、いっさい関知せぬ大精神で通してきたし、今後も、この精神で一貫する。これを破る者は、たとえ大幹部といえども即座に除名する。信者の精神はそうでなければならない。
  昔、関西に猊座のことに意見をふりまわして没落した罰当たり者があったそうだが、仏法の尊厳を損(そこ)なう者は当然そうなる。どなたが新しく猊座に登られようとも、学会会長として私は、水谷猊下にお仕えしてきたのと、いささかも変わりはない。新猊下を大聖人としてお仕え申しあげ、広布への大折伏にまっすぐ進んでいくだけである。」           (『信者の大精神に立て』昭和三十一年一月二十九日)

 「ありがたくも、本日は、御本山の猊下のお出ましを願い、畑毛の猊下のお出ましを願って、われらとしては、これ以上の名誉はない。来年の今日までの間に、本当に功徳をつかむ覚悟で、自分の悩みの心に、大御本尊様を目の前に浮かべ、両猊下を拝もうではありませんか。それでは、わたくしが導師となります。(題目三唱)」
                    (昭和二十九年五月三日創価学会第十回総会)

 「日本中にいる一般の坊主は、全然不用なものである。(中略)二十の扉の語をかりれば、『動物』という題で、影の声が『寺に住む動物の親分』ということになる。すなわち高級乞食である。
  かかる何十万の動物の中で、同じ姿こそしておれ、厳然として人であり、人のなかでも立派な僧侶と名づくべき百数十人の小さな教団がある。この教団こそ日本の宝である。日蓮正宗の僧侶の教団こそ、これである。
  かかる、立派な教団でも、身近に住む信者はありがたいとも思わず、ふつうだと考える。これは、この教団の偉大な功績を見ないものであって、この教団の一部分観をなしたり、または、この教団存立の目的たる広宣流布において、なまけている者が、おったりするものだけを見るから、″宗祖大聖人のお衣の袖(そで)にかくれ、仏飯を腹いっぱい食うことを唯一の願いであるとしている猫坊主が多い″と攻撃して、功績の方を見ない。(中略)
  かかる近視眼的かつ部分観的、一時的に観察せずに、大聖人御出世の御本懐より、または仏法の大局視よりなすなら、口にも筆にも表わせぬ一大功績が、この教団にあるのである。
  わずか百数十人の僧侶が、愚僧、悪僧、邪僧充満の悪世に、よく耐えるもので、大聖人の『出世の御本懐』たる弘安二年十月十二日御出現の一閻浮提総与の大御本尊を守護し奉って、七百年間、チリもつけずに、敵にも渡さず、みなみな一同、代々不惜身命の心がけで、一瞬も身に心に身心一つに、御本尊を離れずに、今日に至ったのである。(中略)もったいないではないか。神々しいではないか。ありがたいではないか。・…かくも、法体を守護し、かつ化儀連綿(れんめん)たる功績こそたたえねばならぬことである。この上に、大聖人の御教義は、深淵にして、厳博(けんぱく)であって、愚侶の伝えうべきことではないのに、賢聖時に応じてご出現あらせられ、なんら損することなく、なんら加うるなく、今日まで清純に、そのまま伝えられたということは、仏法を滅しないことであり、じつに偉大なる功績ではないか。」        
(『僧侶の大功績』昭和二十六年六月十日)

 「(戸田会長は)決然と立って、『御供養することは、信徒の務めである。もし、それが使途不明であるとか、収支決算せよとか、御供養を出しもしないうちから、はじめからそんなことを言っておるのは、信徒の務めを怠っておるものである。信徒は供養することによって利益があるのである。御利益は供養することにある。もし、そのお金を不正に使ったならば、それは使った僧侶が罪を受けるのである。地獄へ堕ちるのである。僧徒は清い供養をすれば、それで御利益がある。経文に照らしても、また大聖人の仰せではないか』と叫んだのである。」
(昭和四十年七月十一日・『大日蓮』二三四号)


挙げたらキリがないが、戸田会長は、心底から日蓮正宗を信じ、大切に想い、赤誠の御奉公を貫こうとしていたのである。そうした戸田会長の信心の大功績によって、まさに

 「花は根にかへり、真味は土にとゞまる。此の功徳は故道善房の聖霊の御身にあつまる
べし」                           (御書一〇三七頁)

との御金言のごとく、師であった牧□常三郎氏の罪は隠れて遺徳が大きく顕彰され、また戸田会長の遺(のこ)した創価学会も数百万世帯にまで発展した。
  • 法介
  • URL
  • 2016/11/21 (Mon) 11:38:39
 

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